ある日、私は3年ぶりに体調を崩した。急性の胃腸炎だった。会社も7日間くらい休んでしまった。病院に行き採血を受けた。私は採血など怖くて苦手である。この年は会社の健康診断の時と含めて2回も受けた。今更だが、私は病院というのが基本的に苦手で恐怖感を感じてしまい、紗英が入院していた時も恐る恐る病院に行っていたのだ。
それから1週間程経った。体調も少しずつ良くなってきた。14時頃、私は、昔、紗英がアルバイトをしていた駅前のカフェに1人でいた。コーヒーを飲みながら煙草をふかしていた。もう、当時の橋本店長とは違う人がお店の店長だった。
夕方、私はふと、母校である瀬野高校に行ってみた。校内は昔と大して変わっていなかった。少し変わった部分といえば周りのベンチが新しくなっていたくらいである。花壇も校舎も変わっていなかった。校内では生徒達が会話をしていた。内容はグループLINE(ライン)のやり取りでの仲間の噂話などだった。会話の詳細に聞き耳を立てていた訳ではないので内容は覚えていない。ただ、生徒達が口にしていた「LINE」という会話が新鮮だった。私が高校生だった当時はスマートフォンも無ければLINEも無かった。その当時の携帯電話といえば折りたたみやスライド式のものが主流であり、メールを利用することが当たり前の時代だったからだ。LINEの「ピンポン」という通知音が鳴り響いていた。しかし、そのような会話以外は、やはり、彼ら彼女らは瀬野高校の生徒達という雰囲気だった。瀬野高校のDNAがそのまま今の生徒達に受け継がれているような感じである。これは、人それぞれ、その母校を卒業した人でないと分からないような感覚だ。
運動場の方へ歩いて向かうと陸上部が練習をしていた。監督は当時の松永先生ではなく、松永先生よりも若くてスラっとした体型の先生だった。サングラスはかけていなかった。私は陸上部のメンバーの中で1人気になる女子生徒を見かけた。彼女はアシックスのソーティジャパンの赤ラインの靴を履いて走っていた。彼女は走り終えた後、私のほうを見て、そのまましばらく私の顔を見つめていた。どこかで見覚えのある顔だった。すると、彼女のほうから私のもとへ小走りにやってきたのだ。
「佐藤修さんですか?」
私は彼女に声をかけられた。
「はい」
私は少し戸惑いながら返事をした。懐かしい顔の女の子だった。髪は肩より長く後ろで1本に結んでおり、前髪が眉毛あたりの長さで髪の色は黒だった。体型も普通で身長は紗英と同じくらいだったのだろうか。
「橋本夢月(はしもとゆづき)です。私のこと覚えていますか? 昔、佐藤さんが駅伝で走る姿を応援しに行きました」
一瞬、この子が誰なのかを考えた。そして、蘇るように彼女のことを思い出した。
「橋本店長の娘さん!」
「そうです! 父の事も覚えていてくれて嬉しい! 父はカフェの店長でした」
夢月さんは高校2年生になっていた。彼女は瀬野高校に入学して陸上部に所属していたのだ。
「びっくりしたよ! そうか、もう高校生か。大きくなったね!」
「はい! 私もびっくりしました! まさか、こんなところでお会いできるなんて。佐藤さんは私達のOBになるんですね」
「陸上部に所属しているなんて、なんかすごく運命的で、とても嬉しいよ! お父さんは元気にしてるの?」
夢月さんは一瞬表情を曇らせた。
「実は、父は8年前に亡くなりました。私が3歳だった頃に胃がんを患いずっと病気と闘ってきました。そして、私が9歳の時に亡くなりました」
「嘘だろ…」
私は、その言葉を聞いてとてもショックを受けた。
「父は、私が陸上選手になることをずっと応援してくれていました。だから、私も瀬野高校に入って陸上部に入ろうと決めたんです」
「それは辛かったね。夢月ちゃん、今はお母さんと暮らしているの?」
「はい、母と2人です。母は女手1つで私をここまで育ててくれました。母には感謝しています」
若くして様々な苦労を乗り越えてきた彼女に対して、私はしみじみと感じていた。すると、彼女の方から私に問いかけてきた。
「佐藤さん、今も陸上を続けていますか?」
「いや、僕はもう陸上を辞めて何年も経っている。昔と違って走ることはできない」
「私、佐藤さんが県の駅伝大会で走っていた姿を今でもよく覚えてますよ」
「そうか、なんか恥ずかしいな。でも、まだ夢月ちゃんが小さい頃だったから、覚えててくれて嬉しいよ」
「佐藤さん、私の走りを1度見ていただけませんか?」
私は、彼女のこの言葉を聞いて過去の記憶を思い出した。かつて、橋本店長が私に彼の娘と一緒に走ってほしいと言ってくれたことを。
「もちろんだよ! でも、一緒に走ることはできない。ここで観ているからトラックを走ってみてくれる?」
「嬉しい! きっとパパも天国で喜ぶわ!」
夢月さんは急に子供のようにはしゃぎだした。夢月さんは3000Mを走った。最初の1000Mまでは順調な走り出しであったが、2000Mまでに彼女のペースは少しずつ落ちていった。残り1000Mとなり、少しずつラストスパートをかけペースを上げているようであったが、体がとても重そうな走りをしていた。フォームだけ見ればスピードが上がったかのように見えるが、実際のスピードはあまり出ていなかったのだ。彼女のフォームは未熟で乱れており、プロの走りとは言えないものだった。脇が少し開いた状態であり女子独特の手がぶれる癖があった。タイムは10分10秒だった。
「お疲れ様!」
「ありがとうございます!」
夢月さんは走り終わってから疲れきっていた。
「夢月ちゃん、3000Mの自己ベストは?」
「10分3秒です。あー、悔しい! もう少しで9分台なのに…」
「夢月ちゃん、フォームを直せばもっとスパートが出せるようになるよ。そうすればきっと9分台で走れる。夢月ちゃんのスパートはまだ本物じゃない」
「本物ではないのですか?」
「そう。フォームを直すと自然と本物のスパートが出せるようになる。今のままで乱れたフォームでのスパートは、ただの全速力であって最後までペースがもたない。最終的には、フォームは自分で見つけるものなんだ。人から言われても、その人に合ったフォームで走り続けないとタイムは伸びないからね」
「ありがとうございます! また次回、挑戦するのでその時も指導お願いできますか?」
「わかった。まぁ、何か目標を持つのも良いことだよ。例えば、世の中には、満月の夜なんか、月を目指すようにして月に向かって走る人もいるんだよ」
「へぇー、素敵ですね! 佐藤さんも月に向かって走っていたんですか?」
「あぁ、遠い昔はね… そうそう、瀬野通りから見える満月はとっても綺麗なんだよ! 確か秋が1番綺麗に見えるかな…」
「佐藤さん、私、実は今日が誕生日なんです。私が産まれた日は満月の夜でした。私の名前の「夢月」は父が名づけてくれたんですよ」
「そうか! 今日なんだね! おめでとう! とってもいい名前だね! きっとお父さんも夢月ちゃんの成長を天国でずっと見守っているよ!」
「はい! ありがとうございます! 佐藤さん、来月11月に県の駅伝大会があるんです。私も出場予定です。もし、お時間があれば是非試合を観に来てください!」
「それは楽しみだね! 是非見に行くよ! 頑張ってね!」
「はい! 頑張ります! あと、私と連絡先を交換していただけますか? よかったら佐藤さんのLINEを教えてください」
とても新鮮なやり取りだった。夢月さんは高校生でありながら本当に言葉づかいなど丁寧でしっかりした子だった。なんとも不思議でありとても懐かしい感覚だった。
夕方の18時、私は家に帰ってきた。外はもう暗くなっており、数分の間、部屋の窓から外を眺めていた。少しずつリラックスした気分になり、気が付けば、ソファの上で夜中の22時頃まで寝ていた。不思議な夢を見ていた。どんな夢だったのかはっきりとは覚えていない。部屋の電気をつけたまま寝ており、ふと目が覚めて、何時なのか分からず、携帯電話(スマートフォン)を見ると22時15分だった。そして、1通のLINEが届いていた。夢月さんからのLINEだった。「佐藤さん、今日はありがとうございます。私はさっきまで練習でした。また今度走るところを見に来てくださいね。それでは、おやすみなさい。P・S 今夜は綺麗な満月ですよ」私は夢月さんからのLINEを見て微笑ましくなった。すると、何か思い立ったかのように部屋の窓を開けて窓から再び外を見た。そして、部屋のデスクの引き出しの中にずっと入れてあったピンクのお守りを二つ取り出して、右の手のひらに乗せそれをじっと見つめた。
「紗英…」
私は1人呟いた。お守りを右手で強く握りしめた。私はお守りを2つ持ち玄関を勢いよく開け外へ飛び出した。家を出て1人瀬野通りに向かって走っていった。
それから1週間程経った。体調も少しずつ良くなってきた。14時頃、私は、昔、紗英がアルバイトをしていた駅前のカフェに1人でいた。コーヒーを飲みながら煙草をふかしていた。もう、当時の橋本店長とは違う人がお店の店長だった。
夕方、私はふと、母校である瀬野高校に行ってみた。校内は昔と大して変わっていなかった。少し変わった部分といえば周りのベンチが新しくなっていたくらいである。花壇も校舎も変わっていなかった。校内では生徒達が会話をしていた。内容はグループLINE(ライン)のやり取りでの仲間の噂話などだった。会話の詳細に聞き耳を立てていた訳ではないので内容は覚えていない。ただ、生徒達が口にしていた「LINE」という会話が新鮮だった。私が高校生だった当時はスマートフォンも無ければLINEも無かった。その当時の携帯電話といえば折りたたみやスライド式のものが主流であり、メールを利用することが当たり前の時代だったからだ。LINEの「ピンポン」という通知音が鳴り響いていた。しかし、そのような会話以外は、やはり、彼ら彼女らは瀬野高校の生徒達という雰囲気だった。瀬野高校のDNAがそのまま今の生徒達に受け継がれているような感じである。これは、人それぞれ、その母校を卒業した人でないと分からないような感覚だ。
運動場の方へ歩いて向かうと陸上部が練習をしていた。監督は当時の松永先生ではなく、松永先生よりも若くてスラっとした体型の先生だった。サングラスはかけていなかった。私は陸上部のメンバーの中で1人気になる女子生徒を見かけた。彼女はアシックスのソーティジャパンの赤ラインの靴を履いて走っていた。彼女は走り終えた後、私のほうを見て、そのまましばらく私の顔を見つめていた。どこかで見覚えのある顔だった。すると、彼女のほうから私のもとへ小走りにやってきたのだ。
「佐藤修さんですか?」
私は彼女に声をかけられた。
「はい」
私は少し戸惑いながら返事をした。懐かしい顔の女の子だった。髪は肩より長く後ろで1本に結んでおり、前髪が眉毛あたりの長さで髪の色は黒だった。体型も普通で身長は紗英と同じくらいだったのだろうか。
「橋本夢月(はしもとゆづき)です。私のこと覚えていますか? 昔、佐藤さんが駅伝で走る姿を応援しに行きました」
一瞬、この子が誰なのかを考えた。そして、蘇るように彼女のことを思い出した。
「橋本店長の娘さん!」
「そうです! 父の事も覚えていてくれて嬉しい! 父はカフェの店長でした」
夢月さんは高校2年生になっていた。彼女は瀬野高校に入学して陸上部に所属していたのだ。
「びっくりしたよ! そうか、もう高校生か。大きくなったね!」
「はい! 私もびっくりしました! まさか、こんなところでお会いできるなんて。佐藤さんは私達のOBになるんですね」
「陸上部に所属しているなんて、なんかすごく運命的で、とても嬉しいよ! お父さんは元気にしてるの?」
夢月さんは一瞬表情を曇らせた。
「実は、父は8年前に亡くなりました。私が3歳だった頃に胃がんを患いずっと病気と闘ってきました。そして、私が9歳の時に亡くなりました」
「嘘だろ…」
私は、その言葉を聞いてとてもショックを受けた。
「父は、私が陸上選手になることをずっと応援してくれていました。だから、私も瀬野高校に入って陸上部に入ろうと決めたんです」
「それは辛かったね。夢月ちゃん、今はお母さんと暮らしているの?」
「はい、母と2人です。母は女手1つで私をここまで育ててくれました。母には感謝しています」
若くして様々な苦労を乗り越えてきた彼女に対して、私はしみじみと感じていた。すると、彼女の方から私に問いかけてきた。
「佐藤さん、今も陸上を続けていますか?」
「いや、僕はもう陸上を辞めて何年も経っている。昔と違って走ることはできない」
「私、佐藤さんが県の駅伝大会で走っていた姿を今でもよく覚えてますよ」
「そうか、なんか恥ずかしいな。でも、まだ夢月ちゃんが小さい頃だったから、覚えててくれて嬉しいよ」
「佐藤さん、私の走りを1度見ていただけませんか?」
私は、彼女のこの言葉を聞いて過去の記憶を思い出した。かつて、橋本店長が私に彼の娘と一緒に走ってほしいと言ってくれたことを。
「もちろんだよ! でも、一緒に走ることはできない。ここで観ているからトラックを走ってみてくれる?」
「嬉しい! きっとパパも天国で喜ぶわ!」
夢月さんは急に子供のようにはしゃぎだした。夢月さんは3000Mを走った。最初の1000Mまでは順調な走り出しであったが、2000Mまでに彼女のペースは少しずつ落ちていった。残り1000Mとなり、少しずつラストスパートをかけペースを上げているようであったが、体がとても重そうな走りをしていた。フォームだけ見ればスピードが上がったかのように見えるが、実際のスピードはあまり出ていなかったのだ。彼女のフォームは未熟で乱れており、プロの走りとは言えないものだった。脇が少し開いた状態であり女子独特の手がぶれる癖があった。タイムは10分10秒だった。
「お疲れ様!」
「ありがとうございます!」
夢月さんは走り終わってから疲れきっていた。
「夢月ちゃん、3000Mの自己ベストは?」
「10分3秒です。あー、悔しい! もう少しで9分台なのに…」
「夢月ちゃん、フォームを直せばもっとスパートが出せるようになるよ。そうすればきっと9分台で走れる。夢月ちゃんのスパートはまだ本物じゃない」
「本物ではないのですか?」
「そう。フォームを直すと自然と本物のスパートが出せるようになる。今のままで乱れたフォームでのスパートは、ただの全速力であって最後までペースがもたない。最終的には、フォームは自分で見つけるものなんだ。人から言われても、その人に合ったフォームで走り続けないとタイムは伸びないからね」
「ありがとうございます! また次回、挑戦するのでその時も指導お願いできますか?」
「わかった。まぁ、何か目標を持つのも良いことだよ。例えば、世の中には、満月の夜なんか、月を目指すようにして月に向かって走る人もいるんだよ」
「へぇー、素敵ですね! 佐藤さんも月に向かって走っていたんですか?」
「あぁ、遠い昔はね… そうそう、瀬野通りから見える満月はとっても綺麗なんだよ! 確か秋が1番綺麗に見えるかな…」
「佐藤さん、私、実は今日が誕生日なんです。私が産まれた日は満月の夜でした。私の名前の「夢月」は父が名づけてくれたんですよ」
「そうか! 今日なんだね! おめでとう! とってもいい名前だね! きっとお父さんも夢月ちゃんの成長を天国でずっと見守っているよ!」
「はい! ありがとうございます! 佐藤さん、来月11月に県の駅伝大会があるんです。私も出場予定です。もし、お時間があれば是非試合を観に来てください!」
「それは楽しみだね! 是非見に行くよ! 頑張ってね!」
「はい! 頑張ります! あと、私と連絡先を交換していただけますか? よかったら佐藤さんのLINEを教えてください」
とても新鮮なやり取りだった。夢月さんは高校生でありながら本当に言葉づかいなど丁寧でしっかりした子だった。なんとも不思議でありとても懐かしい感覚だった。
夕方の18時、私は家に帰ってきた。外はもう暗くなっており、数分の間、部屋の窓から外を眺めていた。少しずつリラックスした気分になり、気が付けば、ソファの上で夜中の22時頃まで寝ていた。不思議な夢を見ていた。どんな夢だったのかはっきりとは覚えていない。部屋の電気をつけたまま寝ており、ふと目が覚めて、何時なのか分からず、携帯電話(スマートフォン)を見ると22時15分だった。そして、1通のLINEが届いていた。夢月さんからのLINEだった。「佐藤さん、今日はありがとうございます。私はさっきまで練習でした。また今度走るところを見に来てくださいね。それでは、おやすみなさい。P・S 今夜は綺麗な満月ですよ」私は夢月さんからのLINEを見て微笑ましくなった。すると、何か思い立ったかのように部屋の窓を開けて窓から再び外を見た。そして、部屋のデスクの引き出しの中にずっと入れてあったピンクのお守りを二つ取り出して、右の手のひらに乗せそれをじっと見つめた。
「紗英…」
私は1人呟いた。お守りを右手で強く握りしめた。私はお守りを2つ持ち玄関を勢いよく開け外へ飛び出した。家を出て1人瀬野通りに向かって走っていった。
