お昼を過ぎて15時になり、選手達の試合の全スケジュールが終わった後、陸上部は解散を行った。私は大村競技場内で私の母と待ち合わせをしていた。私はそのまま母と一緒に私が足の怪我で通院していた大橋(おおはし)整形外科という病院に母の運転する車で向かった。大橋整形外科は瀬野市内にあるとても小さな個人経営の病院であったが、先生の腕は確かであると市内でも有名だった。病院に着くといつも通り、右足の脛の部分のレントゲン撮影が行われ、数分経って先生から症状についての説明を受けた。
「だいぶ歩けるようになりましたね。骨にはまだ綺麗に線が1本入ったままですが、1カ月前と比べてわずかに線が小さくなっています」
大橋先生は白髪がふさふさでありおそらく70歳を超えている高齢の医者であった。眼鏡をかけておりとても話し方が賢い先生だったのを覚えている。
「先生、いつ頃からジョギングをしても大丈夫ですか?」
私は不安な気持ちで先生に質問をした。
「夏になる8月頃から大丈夫でしょう。だから決して焦らないようにしてください」
 夕方の17時半、私と母は整形外科から帰宅する途中、家の近所のスーパーで夕飯の材料を買った。買い物を終え、車の中で母と話した。
「修ちゃん、今日は紗英ちゃんどうだった?」
「今日は全然ダメだった。多分、少し暑くなったからスタミナ切れだったのかもしれないけど」
「そうか。女の子はね、男の子以上に体調管理が大変なのよ」
「まぁ、体調が悪いって言っても、紗英らしくない走りだったんだけどな…」
私は1人で腑に落ちない気分で呟いた。母は、家の駐車場に車を停め、2人で買い物袋と荷物を持って玄関に向かった。
「お母さん、明日は仕事休みだから街のほうまで買い物に行く予定なの。修ちゃんも一緒に来る?」
「うん、一緒に行くよ。あとさ、俺神社に行きたいんだ!」
「神社? いいけど、何かお願いごとでもするの?」
母が不思議そうに言った。
「まぁ、ちょっといろいろとね。俺、あんまり詳しくないんだけど、この辺でおすすめの神社ってある?」
「そうねぇ、この辺りだと諏訪(すわ)神社かな。今年、一緒に初詣に行ったところだよ」
「諏訪神社か。いいね。じゃあ明日一緒に行こう!」
「はいはい。その代わり、朝寝坊しないようにね」
母は優しく笑顔で言った。次の日は月曜日であったが高校の創立記念日のため、授業も部活もない休日であり、久しぶりに母と休日が重なった日であった。
 私の母親は介護の仕事をしている。私の父親とは1999年に離婚した。5階建ての市営の集合アパートの402号室に私は母と私の弟と3人で生活をしていた。同じような建物が周辺には20棟近く建ち並んでいる。所々に小さな広場や公園があり駐車場もたくさんある。
 夕方18時、家に帰ってきて私は部屋で1人窓から外を見つめていた。外はまだ日が暮れる前で明るかった。小学生の男女達が公園で元気そうに走り回って遊んでいた。子供達のそんな様子を窓から眺めて1人で物思いに耽っていた。その日の紗英の走りを観て、ふと3月に行われた試合のことを思い出していた。
 この年の3月の出来事だった。高校2年から3年に学年が変わる春休みに、県のロードレース大会が大村競技場で開催され、この日、私は足を怪我してちょうど1週間経った時期であった。私は怪我のせいで何事も手につかず、愕然とやる気を失っていた。それゆえに、しばらくいろんなことをサボりたい願望が強く、その日は試合を観に行かずに丸1日自主休校にしようと思っていたが、さすがに松永先生にバレて怒られると思ったので、昼前までゆっくり寝て遅れて試合を観に行ったのだ。紗英は当日、5000M走の出場であり、既にレースは午前中に行われたため、私はこの日、紗英のレースを観ることはなかった。母の車で試合会場まで送ってもらい私はお昼過ぎに競技場へと着いた。紗英が私の姿に気付き、私のところに小走りでやってきた。
「修くん、今日、午前中寝てたでしょ?」
「えっ? そんな訳… いや、嘘です。なぁ、まっちゃん(松永先生の当時のあだ名)には、午前中は足の病院に行くっていうことにしているからバラさないでくれ」
私は少し怯えながら両手を合わせ紗英に頭を下げて言った。
「ズルいなぁ。でも、次にズル休みしたら先生に本当のこと言おうっと。それが嫌だったら私にipod買ってね」
紗英は勝ち誇ったように言った。
「マジか。もうサボったりはしない。ねぇ、そういえば今日のタイムどうだった?」
私は急に話を逸らすようにして紗英に聞いた。
「うーん、今日のタイムは… 聞かないでほしいな」
紗英は苦笑いして答えた。
「なんで? そんなに悪かったの?」
「だって… 16分20秒だったの」
紗英は急に表情を暗くして言った。
「えっ? 16分切れなかったの?」
私は紗英の返答に少し拍子抜けしてしまった。紗英は5000Mを15分台で走れる実力の持ち主であったからだ。
「なんかね、走っていて急に頭が痛くなったの」
紗英は自分の頭を右手で触りながら言った。少し困ったような表情だった。
「あまり聞いたことないな。走っていて胸やおなかの周りが痛くなることはあると思うけど。それって脱水症状じゃないのか?」
「うーん、わかんない…」
 3月に行われたロードレースがつい最近のことのように頭の中で回想していた。まだ寒い時期だった。気が付けば、夕方18時半を過ぎていた。だんだんと外は薄暗くなり始め、部屋も少しずつ暗くなっていた。部屋の明かりをつけたら台所から母が私を呼ぶ声が聞こえた。
「修ちゃん、ご飯できたよ!」
「はーい」
私は母には全く聞こえない大きさの声で返事をして台所へ向かい、母と弟と一緒に夕飯を食べた。この日の夕飯は野菜カレーと、きゅうりとタコの酢の物であった。