2004年、私は瀬野高校に入学し清少紗英と出会った。彼女とは同じクラスであったが、特にお互い話すような関係ではなかった。私は入学当初から既に陸上部に所属していたが、紗英はこの時まだ陸上部に所属していなかった。当時、紗英のことで強く印象に残っていることは、やたら足が遅かったことである。学校の体育の授業などで100M走などを走る時も一際目立って遅かった。
「あいつ、足遅いな。トロ子だよ」
男子達は紗英のことをからかうようにして彼女にあだ名をつけていた。  
高校に入学してから半年経った、2004年の10月半ばの出来事だった。私は、この日の夜、自主トレを自宅の下の公園で行っていた。公園は1周1200M程のロードレースができるような広い公園であり、夜中にジョギングをしていたのだ。
「うわーっ、綺麗だなー!」
ジョギングをしながら夜空を見ていると、とても綺麗な満月が輝いていた。私は、そのまま月に向かうようにして公園を出て住宅街の細い道を抜け、気が付くと、瀬野通りに出て通りの歩道を走っていた。瀬野通りから見える満月は、10月が一番見頃なのである。私はそのまま歩道をまっすぐ月に向かって走っていた。すると、目の前に多田川が見えてきた。川の陸橋の上を走ると、なんとも壮大な景色だった。遠くには夜景が綺麗に輝き、川の上は建物などが無く視界が広くなるため、この満月がより一層綺麗に輝いて見えた。
「よし、月に向かって最後は全速力で走ろう!」
私は心の中で叫び、多田川の陸橋の真ん中の位置あたりから満月を見ながら全速力で走りだした。私はこの時、この満月に見惚れていたに違いない。多田川を渡り終えれば、その先にある大きな交差点まで約100Mほど緩やかな下り坂となるので、最後のスパートをかけようとしていたまさにその瞬間だった。
「わっ!?」
私は一瞬何が起きたのか分からなかった。気が付いたら歩道の上で転んでいた。月を見ながら走っていたので足元に気付かず足をつまずけてしまったのだ。多田川の陸橋の段差のところで足をつまずけて転倒した状態だった。履いていた靴の紐が完全に緩んでいた。
「なんだよ、こんなときに絆創膏なんか持ってる訳ないよな…」
両方の手の平の下のほうを擦っておりかすかに血が出ていたが、それよりも右足の膝下あたりを1番強く擦っていた。履いていたジャージのズボンをまくり上げると、案の定、膝の周辺から血が滲み出ていた。決して、走れないほどの痛みではなかった。私は、橋の上に座り込んだまま少し痛みが引くのを待った。そして、引き返して瀬野駅近くのドラッグストアまで歩いて向かった。
「ついでに、傷薬も買っておくか」
私は店内で絆創膏と傷薬を探していた。この店は瀬野駅のロータリー沿いにある大きなドラッグストアであり、実は、この店では、当時万引きが多発していた。そのほとんどの商品が女性用の化粧品だった。防犯カメラだけでは店の構造上人物が特定できなかったらしい。しかし、防犯カメラの映像から私が通っていた瀬野高校の生徒が犯人であるとの噂が広まっていた。どうやら制服の特徴などで的を絞られていたのだ。そのため、警察からも瀬野高校には指導が入っていた。学校の全校朝礼などでも注意喚起がなされ、クラスごとにも担任からの警告が生徒達へと直接伝わっていた。
「また、生徒による万引きが昨日あったということだ。ここ1カ月で数件確認している。お前達の仕業とは信じたくない。とにかく、そういうことをやっているのならすぐに辞めろ。分かったな!」
担任の服部先生が生徒達に釘を刺した。そんな服部先生の言葉が脳裏をよぎった瞬間だった。私は店内でどこかで見覚えのある女性を1人見かけた。その女性は私服姿であり、濃い緑色で膝くらいまでの長さのワンピースを着ており、その上に黒のカーディガンを羽織っていた。靴は茶色のショートブーツのようなものであった。
「清少?」
私はその女性が紗英だと気付き、とっさに彼女に声をかけようとした。普段絡みがなかった関係とはいえ偶然にも街中で同じクラスの子がいれば、せめて挨拶くらいはしようという気持ちで私は彼女の後を追った。彼女は私に気が付くことなく化粧品棚の前で立ち止まった。すると、あろうことか、彼女は棚に置いてあった商品の一部をそっとカバンの中に入れたのだ。私は、あの紗英が万引きするところをこの目で目撃してしまった。
「おい、清少!」
私は紗英に向かって大きな声を出した。すると、彼女は私の存在に気付き、目が合った瞬間、一瞬固まったように立ち竦んだ。そして、私が紗英のもとへ近づこうとすると、彼女は走って逃げ出した。
「おい、待てよ!」
私は紗英を必死で追いかけた。彼女はひたすら走って逃げ続けた。私は信じられない光景を2つ見たのだ。1つは紗英が万引きをした姿を見たこと。そして、もう1つは、あの清少紗英がまるで別人のように速く走っていた姿を見たことであった。それまでに私の知っていた紗英の走りではなかった。
「あのトロ子め! あいつは一体何者なんだ!?」
私は心の中で鬼のように叫んだ。だが、しばらく走っているうちにとても不思議な感覚になった。私と紗英は満月の夜に、まるで月に向かうようにして瀬野通りを走っていた。再び、多田川の陸橋のところまで差し掛かった。陸橋を少し渡ったところで私はようやく彼女を捕まえた。
「捕まえたぞ!」
私は紗英を後ろから強く抱きしめた。彼女が逃げないようしていた。その時の彼女の鼓動は高まっていて、息が荒くなっていたのを覚えている。数秒間、時間が止まったような感覚だった。すると、彼女は私を振り切ろうとした。
「離してよ! 佐藤君には関係ないでしょ!?」
私は紗英の身から両腕を離し、私の方へ彼女を振り向かせた。
「関係なくねーよ! お前、なんで万引きなんかしてるんだよ!?」
紗英は黙りこんだ。私は許せないという気持ちもあったが、それ以上にどうしてという感情のほうが強い気持ちだった。紗英はしばらく下を向いたままだった。私は彼女の目を見て話しかけた。
「お前、なんだあの走りは? 体育の時間の時とは別人じゃないか?」
すると、紗英は睨んだようにして私の顔を見てきた。
「私だってね、本気を出したらこのくらい走れるのよ! バカにしないで!」
一瞬、紗英の気迫に負けたような気がして私は黙り込んでしまった。数分経って、紗英は彼女の携帯電話で彼女の母親を呼び出し、私と紗英と紗英の母親と3人でお店に謝罪をしに向かい、彼女が盗んだ商品もお店に返した。万引きは紗英と紗英の仲が良かった瀬野高校の女子生徒が数名行っていたという事実が分かった。この時だけは学校への報告だけでお店側から許してもらえた。後日、彼女達は担任、学年主任、教頭等に説教をされ、次に同じようなことがあれば退学及び少年院へ収監されるという条件のもと誓約書を書かされ、この件は無事に済んだ。それ以来、瀬野高校の生徒による万引きが発生しているという噂は消え去った。