10月1日、この日は日曜日で陸上の練習はお休みだった。私は朝8時頃に起きて家で洗濯物を外に干していた。爽やかな秋晴れであった。母は既に仕事に出かけており家には誰もいなかった。特に何かをする予定も無く、ただ携帯電話をいじっていた。すると同じタイミングで紗英からメールが届いた。「修くん、今日、私の父がお見舞いに来てるの。修くんに会いたいって」私は、急いで準備をして瀬野病院へと向かった。瀬野通りを1人走っていた。午前10時に病院に着いた。院内の敷地に植えられていたイチョウの木が段々と黄色くなりはじめていた。秋の深まりを感じた瞬間であった。私は病室へと向かい部屋のドアをノックして中へ入った。すると、そこには紗英の父親が、紗英が寝ているベッドの前に座っており、私に気が付いて振り向いてきた。
「お父さん、こんにちは! お久しぶりです!」
「おぉ、佐藤君か! 久しぶりだね!」
紗英の父親が元気そうに私の肩を触って私を歓迎してくれた。私も思わず笑顔になった。
「紗英さんに会いに来てたんですね?」
「あぁ、紗英が倒れた話を妻から聞き、私も何度かお見舞いに来ていたんだ」
紗英の父親はとても紳士的な方だった。
「紗英、具合は大丈夫?」
私は紗英のところへ行き彼女の手を掴んだ。彼女の右手がほんの少しだけ震えていた。
「私は、大丈夫だよ」
30分程の間、私達3人は病室内で紗英の病気の話や学校の話、陸上の話などをしていた。そして、私は紗英の父親に2人で話しがしたいと言われ、病室を出て病院の1階のロビーのソファに座り2人で話をした。ほんの少しだけ、紗英を1人にしたまま病室を離れるのが不安だったが、すぐに女性の看護師さんが紗英の病室に来て一緒にいてくれたので、ホッと一安心できた。
「佐藤君には本当に何から何まで感謝している。2年前に、君と紗英が出会ったからこそ、紗英も私も救われた。そして、紗英がこんな風になったのは全て私のせいだ。すまない!」
「お父さん、僕は何もたいしたことなどしてないですよ。それにお父さんが僕に謝るようなことなどありません」
私は苦笑いして答えた。紗英の父親は表情を少し暗くした。
「佐藤君、正直、紗英は厳しい状態だ。これは私の勝手な願いだ。強要はできない。だけど、もしよかったら紗英が元気なうちに、たった1度でいい、紗英と一緒に走ってやってくれないか?」
私は紗英の父親の言葉に何と返事をしてよいか分からなかった。
「私も妻も、何度も元気になるまでは走るのはダメだと言ったんだ。そんなことしてまた倒れたら、もう2度と助からないって。だけど、あの子は聞こうとしなかった。もし、紗英が後悔することがないのであれば、私はそれで構わない。あの子のためだ。君は紗英を助けてくれた。そして、私をも助けてくれた。私は父親ながら情けない」
紗英の父は目に涙を浮かべていた。そして、少し穏やかな口調で遠くを見つめるようにして語りだした。
「あの子は小さいときから月を見るのが好きだった。月に向かって走り回っていたんだ。「パパ、どこまで走ったらあの月まで着くかな?」なんてことを言っていたな…」
「とても、可愛らしいですね」
小さい時の紗英を想像して私は思わず愛おしい気分になった。
「佐藤君、君は、決して私のような弱い人間になってほしくない。私はご存じの通り、こんな足の状態だ。生きる希望を失って何もかもが嫌になりダメな時期があった。けれど、紗英が高校生になって再び走りたいと言って頑張るようになったのは全て君のおかげだ。そんな、紗英の姿と君の姿を少しずつ親として見ているうちに、私は自分自身が情けなくなった。そして、その話しを大橋先生にしたら、先生は教えてくれた。人はいかなる辛い時でもブレたらいけないと…」
「お父さん、お父さんも大橋先生のところに診察を受けに行っていたんですね?」
私は思わず、紗英の父親に大橋先生のことについて詳しく知りたくて質問をした。
「あぁ、あの先生はなんでもお見通しだ。まさか佐藤くんも足の怪我で同じ病院に通っていたなんてね。これも何か運命的だな。私は大橋先生からブレたらいけないとお叱りを受けてから、もう1度人生を頑張ろうと心に決めたんだ」
1時間くらいいろんなことを紗英の父親と話した。病院の1階のロビーのソファに座っていると常にたくさんの医師や看護師、そして患者さんが行き通う光景が目に入っていた。紗英の父親は私と話し終わってから、そのまま1人で病院を出た。右足に義足を付けていたが杖なしでゆっくりと歩いていた。病院を出て行く時の紗英の父親の後ろ姿がとても寂しそうに見えた。私は紗英の父親が外に向かって歩いていく姿を見届けたあと、紗英がいる病室へと戻った。
「パパと何を話したの?」
紗英が目を丸くして言ってきた。
「紗英の小さい時の話などをしたよ。走るのが好きで可愛かったって言ってたよ」
「恥ずかしい」
紗英は照れくさそうな様子だった。
「紗英、お父さんに、俺と一緒に走りたいって言ったの?」
「えっ? パパったら修くんにそんなことまで言ってたの?」
「あぁ、お前の願いだって言ってた。決して走れなくてもいいよ。もし、10月の満月が綺麗に輝いていたら、少しでいいから、俺と一緒に月に向かって歩いてみよう」
「修くん、私嬉しい。ありがとう」
紗英は目に涙を浮かべていた。
「お父さんは紗英のことをすごく大事に想ってるんだなって思ったよ」
「私はね、パパが好きよ。修くんは私のパパそっくりなの」
紗英はベッドの毛布で口と鼻を覆って隠しながら話した。よく見ると、額の周辺が赤くなっていた。
「修くんは、もし、大切なものを失ったりしても、ずっと変わらず修くんのままでいてね。約束だよ」
「あぁ、約束する!」  
私は病室で紗英をずっと抱きしめていた。日が暮れるまでずっと紗英と一緒にいた。紗英の父親がなぜ右足を失って義足であり、紗英の父親がなぜ私に感謝をしていたのか。それは、この年から遡って2年前、私と紗英との出会いが全ての始まりであった。