翌日の大会当日、部屋に差し込む朝日の眩しさで私は目を覚ました。私は慌てて携帯を見ると、時刻は8時25分だった。
「やべー、間に合わないな。よし、自転車で行くか!」
急いで支度をして家を飛び出し自転車を転がした。走れない人間が爽快に自転車を転がしながら学校へと向かっていた。自転車を漕ぐのは足にも負担はほとんどかからないので、まるで自転車を魔法の乗り物かのように感じた。なぜか、怪我をした時などはこのような変な考えをしてしまうものだ。私は家から近い高校の裏門から校内へと入り、正門の駐輪場まで自転車を走らせて駐輪場に自転車を停め、急いで陸上部が集合している正門前へ向かった。少し右足をひきつりながらも小走りで走った。とにかく遅刻をしたくない一心だったのだ。高校の正門前には大型のバスが2台ハザードをつけ並んで停まっており、陸上部のメンバーは7割くらいが集合していた。紗英もバスに乗ろうとしていた。
「紗英!」
「あっ、修くん!」
私は苦笑いしながら紗英の名前を大きな声で呼んだ。紗英は私に気付くととても嬉しそうに手を振っていた。
「いやー、ぎりぎり間に合ったよ」
「よかった、ちゃんと来てくれて。ねぇ、バスの中一緒に座ろう」
バスの真ん中あたりの席に2人並んで座った。車内はエアコンが効いていて涼しく感じられた。バスは高校を出発して瀬野通りを走り出した。バスが出発してから5分くらい経ち、紗英は試合用のアシックスの靴の右足用を左足用が入っている青い袋に入れ1つにまとめた。紗英が愛用していた靴はアシックスのソーティジャパンという靴であった。真っ白を基調とした色でアシックスのマークラインが赤色で横に入っていた。彼女は基本的にトラックレースでもスパイクを履くことは無く、ロードレースの時と同様に、トラックレースの時もこの靴を履いて試合に臨んでいた。本人曰く、スパイクが足に合わずシューズの方が走っていて落ち着くとのことだった。バスはしばらく大通りを走り続け、やがて、インターチェンジから高速道路に入った。窓から景色を眺めているとだんだんと瀬野市の街並みが遠く離れていくように見え、やがて田園風景が見えてきた。遠くには海が見え海水が太陽光で反射されとても綺麗だった。
「紗英、今日、1位になったらipod(アイポッド)買ってあげるよ」
「本当に? 約束だよ! 嘘だったら絶対に許さないからね」
バスの中で、2人は他愛のない会話をして試合前の緊張をほぐしていた。当時、世の中は「ipod」というウォークマンが出て数年経ったころで、それまでCDやMDウォークマンで音楽を聴いていた私達の常識を見事に変えた。音楽はデータで管理され従来のMDウォークマン等より小型化されたにも関わらず、何百、何千という曲が1つの端末内に入るのだ。走りながら使用しても音が飛ぶことはほとんど無く革新的な製品であった。紗英はとにかくこのipodを欲しがっていた。
 午前10時頃に試合会場に着き、陸上部一同はバスを降りた。芝生の上にブルーシートを敷きその上に各自の荷物をまとめて置いた。選手達はブルーシートの周辺で少しの間リラックスしていた。そして、15分くらい経つと、陸上部の監督である松永(まつなが)先生がサングラスをかけ青のベースボールキャップを被り、上は白のポロシャツ下は黒のジャージ姿で私達の所へゆっくりと歩いてやってきた。
「おはようございます!」
陸上部一同は皆先生の姿に気が付くと、すぐに全員立ち上がって元気よく挨拶をした。
「みんなおはよう!」
松永先生も少し上機嫌な様子で挨拶をしてきた。私達は皆先生を囲うようにして集合した。松永先生は高校には寄らず、直接、家から試合会場へ来ていた。先生は私達1人1人をサングラス越しから見て皆の様子を確認するかのように見渡した。そして、先生は私の存在に気が付くとからかうようにして声をかけてきた。
「おっ、佐藤(さとう)、今日はよく遅刻しなかったな!」
「はい、なんとか間に合いました!」
私は恐る恐る返事をした。松永先生は瀬野高校の体育教師であり、陸上部の監督を務めていた。ジャージ姿がとても似合い見た目からして完全に体育会系教師であった。とても威厳があり体格が良く怖い先生であったが、生徒達のことを誰よりも大切にしていた。当時、練習中に走る私達をよく竹刀で叩いていた。走るフォームが乱れてバテてるふりをしたような走りはすぐに先生に見抜かれて、男女関係なく生徒達は叩かれていた。今の時代からすれば体罰にあたるような行為であるが、私達にとってはそれが当たり前の日常であった。先生は陸上の練習や試合時には薄めの茶色のサングラスをよくかけていた。なぜか、陸上の先生というのはサングラスをかけた監督や顧問が多いのだ。選手達はレース前のウォーミングアップを行い、レース直前になって再び先生のところに集まり試合前の意気込み等のミーティングをした。
「清少、今日のレースはスパートが勝負の分かれ目だな。これからだんだん暑くなってくるからスタミナも大事になってくる。力みすぎずに頑張れ!」
「はい!」
紗英は勢いよく返事をした。
「佐藤、お前も夏までには頑張って復帰してくれよ! 今日は清少の応援も頼むぞ!」
「はい!」
私も力強く返事をした。私自身、松永先生の言う通り夏までには必ず復帰をしたい気持ちが誰よりも強かった。
 私達が試合を行った会場は大村(おおむら)競技場という競技場である。瀬野高校からバスで1時間ほど離れた場所にある。県内の外れのほうの市にあり県内一広い運動競技場である。場内はメインの会場では陸上のトラックレースの他に、サッカーの試合やラグビーの試合等でも使用される。その他に練習用のトラック競技場や少し離れた場所には野球場もあり大きな公園もある。さらには、1周10キロメートルのロードレースもできるとても広い競技場である。
 午前11時半、太陽がだんだんと高く昇っていた。紗英はトラックレースの女子3000M走への出場だった。紗英はアシックスのソーティジャパンに履き替えてスタート場へと向かっていった。スタート前のウォーミングアップを終え、いよいよレースが始まった。紗英はスタートして勢いよく走りはじめ先頭集団の中で走り続けた。順調に走りながら時折1位や2位を争った。しかし、2000Mを過ぎたあたりで紗英は急に失速しはじめた。30人の集団が順位を争っている中で、紗英は2500Mの地点で13人に抜かれてしまったのだ。残りトラック1周の400Mとなった。紗英のフォームは決して乱れてなかったもののスパートがなかなか出ていない走りだった。残り100Mとなり、紗英は少し下を向きながら懸命に走り続け、途中何人かを抜き返したが、結果9位でのゴールとなった。紗英は走り終わったあと会場から出て来た。私は彼女のもとへ向かった。
「どうした今日の走り? お前らしくないな」
私は走り終わった紗英に対して少し上から目線で声をかけた。彼女は普段走り終わった姿とは違って、いつも以上に疲れきっていた。
「うん、急に暑くなったからスタミナ切れかな」
紗英は苦笑いしながら答えた。彼女の右足の靴の紐はほどけており、それに気付いてしゃがみこみ靴の紐を結び直そうとしていたが、なんだかうまく結べない様子で手が震えているようだった。
「上手く結べない。誰かに悪戯されたのかも。ずっと右足の靴だけ下駄箱に置きっぱなしにしていたからね」
紗英が1人呟いていた。すると、松永先生が紗英と私のところへやってきた。
「清少、お疲れ様。お前、具合でも悪いのか?」
紗英は立ち上がって答えた。
「先生、今日は走っている時に体にだるさを感じました。最後はうまくスパートが出せなかったです」
「そうか。3月のレースも同じような結果だったな。無理にとは言わないが、スパート勝負ができないと夏の試合や駅伝は厳しくなるぞ」
紗英は落ち込んだ様子で黙って下を向いたままだった。松永先生はそんな紗英の様子を見て口を開いた。
「まぁ、良い時も悪い時もある。体調管理も重要だからな。今日の反省をしっかり行ってまた次回頑張ろう!」
「はい。ありがとうございます。頑張ります!」