8月25日、夏休みが残り1週間となり、残暑が残る中、午後のお昼過ぎの時間に、陸上部の長距離メンバーはキロ5分のジョギングを行っていた。これは1キロを5分で走るペースのジョギングのことである。14時半になる頃だった。私はそれまで1人で別メニューの腹筋、背筋を繰り返していたが、なぜか、ふとそれらのメニューを辞めて、ジョギングをしている長距離メンバーの集団に走って向かっていった。
「修、どうした!?」
走っているメンバーの1人が少し驚きながら私に声をかけてきた。
「俺、もう走るよ! これ以上は我慢できない。みんなと走りたい!」
気が付けば、私は自然とみんなと一緒に走っていた。足の痛みが全く無かったかといえば嘘になる。しかし、そんな痛みのことなどもはや気にならなかった。私はそのままキロ5分のペースでみんなと一緒に4キロを走りきった。私はついに走り出したのだった。実に、6カ月振りにちゃんと走ったのだろう。走り出す前は一瞬、大橋先生の言葉が頭をよぎったが、走っている時は夢中な気持ちになっていたので、先生の言葉などすっかり忘れていた。
 その日の練習が終わり、夕方17時頃、松永先生が走り終わった私の様子を見て声をかけてきた。
「佐藤、ちょっといいか?」
「はい!」
私は松永先生に呼ばれて職員室で先生と話した。
「お前、もう足は大丈夫なのか?」
「はい、少し違和感がありますが、大丈夫です!」
私は先生の目を真っすぐ見つめて言った。
「そうか。もはや、骨の状態は関係ないのかもしれないな。あとは、お前の気持ち次第だ」
先生は落ち着いた様子で私に言った。
「佐藤、話は変わるが、今夜、瀬野病院の屋上に行ってみろ。花火が綺麗に見えるぞ。清少と2人で見るといい」
松永先生はそれまでの真剣な表情から急に穏やかな表情に変わった。私は少し肩の力が抜けたような感覚になった。
「そうなんですか? 先生、なんでそんなこと知ってるんですか?」
私は目を丸くして質問した。
「俺が新人の体育教師だった時に、当時、足を骨折した生徒がいてな、瀬野病院に入院したんだ。俺はよくその人のお見舞いに行っていた。ちょうど今の時期でまだ暑い日だった。瀬野病院は、花火大会の日に屋上を解放するんだよ。入院患者とお見舞いの人しか見られない特別な場所だ」
「へーっ、そうだったんですね!」
私はとても興味津々で先生の話を聞いていた。
「その生徒さんは今でも陸上を続けてるんですか?」
私は松永先生の話にどんどん興味が湧いてきて先生に質問した。
「いや、今、陸上はしてないよ。今は俺の家内だ」
「えっ? 先生の奥さん!?」
「あぁ、そうだ。それから数年経って結婚したんだよ。当時は生徒に手を出しやがって、なんて周りからからかわれたけどな。でも、結婚したのは彼女が大学を卒業した後だよ」
松永先生は懐かしむように昔話を話してくれた。私は微笑みながら先生の話に耳を傾けていた。
「佐藤、人はな、他の人を支えてあげるということは本当に大変なんだ。自分が幸せでなければ人を幸せにしてあげることはできない」
先生は私の目を見て話した。
「人を支えることですか?」
私も先生の目をしっかりと見て質問した。
「俺も教師になる前までは辛かった。教員の試験は何度も落ちて、他に就職先など向いてるところはなかった。それでも、ようやく念願だった教師になることができたから、頑張って奥さんを支えてあげることができたんだ」
「とても立派ですね。先生、俺は先生のように紗英を支えてあげることはできますか?」
「それはもう、お前が支えるしかないんだ。そのために、何ができるのか答えを見つけるのは自分自身だ。ほら、早く清少のところへ行って来い! 清少はお前が走れるようになるのをずっと楽しみに待ってたんだ。ちゃんと自分で報告するんだぞ!」
松永先生は私の尻をポンっと叩いて言った。
「はい! ありがとうございます!」
私は先生に深々と頭を下げて、先生から押し出されるようにして高校を出た。そして、走って瀬野病院まで向かった。病院に着き紗英の病室の中に入った。病室のエアコンはあまり効いておらず部屋が蒸し暑かった。だんだん日が傾いてきており部屋が薄暗かった。
「紗英、どうした? 電気も付けずに」
紗英は病室のドアの方に背を向けてベッドの上に横たわっていた。そのままゆっくり私の方に首だけを向けて私を見てきた。
「修くん」
紗英の表情は少し疲れきっていた。私は、荷物をベッドの傍に置き紗英のベッドのすぐ横に椅子を移動させて座った。少し深呼吸をしてから紗英の方を見つめて話しだした。
「紗英、頭は大丈夫? 痛くない?」
「うん、平気」
紗英が私の顔を見て頷いた。
「そうか。あのね、俺、今日やっと走ったよ!」
「えっ? ほんと!? そうか、よかった!」
紗英が私を見つめながらベッドから起き上がった。私は、自分が走れるようになったことを紗英に報告して彼女はきっと喜ぶだろうと思っていた。しかし、彼女はあまり喜ぶ様子は無くそのまま少し下を向き寂しそうな表情をしていた。私は、椅子から立ち上がり病室の窓の方へ行き外の景色を眺めた。数分の間、沈黙が続いた。
「修くん、やっと走れるようになったのに、ごめんね」
紗英が小さな声で口を開いた。なぜ紗英が寂しそうだったのか。きっと、彼女は私と一緒に早く走れるようになりたいと思っていたからだろう。そのまま、静かに時間が過ぎ、外は暗くなりはじめていた。すると、窓の外からだんだんと花火が打ち上がる音が聞こえてきた。私は心の中でガッツポーズをして少し嬉しくなった。
「ねぇ、紗英、屋上に行こうよ!」
「えっ?」
私は元気よく紗英に向かって言った。彼女は不思議そうに私を見つめてきた。
「今夜、屋上で花火が見えるんだよ! 歩くのが辛かったら車椅子のままで大丈夫だから、一緒においで!」
私はゆっくりとベッドから降りる紗英を抱えながら、彼女を車椅子に座らせ、病院の屋上まで一緒に向かった。この日は瀬野市の花火大会が開催されていた。松永先生が教えてくれた通り、瀬野病院の屋上からは、夏の夜空に打ち上がる花火がとても綺麗に見えて、屋上にはたくさんの患者さんやお見舞いに来た人々が花火を観ていた。
「わぁ! すごい! 綺麗!」
「ここ、まっちゃんが教えてくれたんだ! 花火が綺麗に見えるって!」
「そうなの? 先生って、ロマンティストなんだね!」
私と紗英は2人で笑っていた。
「とっても綺麗! まるで、花火が修くんの復帰を祝ってるみたい!」
紗英は綺麗な打ち上げ花火を見て元気を取り戻していた。松永先生には感謝の気持ちでいっぱいだった。 
 夏の終わり、私達は夜空に輝く花火を見ながら2人寄り添っていた。気が付けば、あっという間に高校生活最後の夏休みも終わりを迎えていた。8月末にかけて、私は新学期に向けた準備などを行い、日々、陸上の練習や受験勉強に力を入れていった。そして、季節はいよいよ秋へと向かっていった。


月へのスパート <下> ~運命が変わる時、いつも月に向かって走っていた~ に続く