8月14日、世間はお盆休みに入っていた。私は朝7時頃に目を覚ました。家で朝食を済ませ、部屋で着替えをしてから出かける準備をした。普段あまり着ることのない服を選んで着た。前日の夜にあらかじめ何を着るか準備をしていたのだ。私は午前9時過ぎに瀬野病院に着いた。病室まで迎えに行こうと思ったが、敢えて、「病院の出入口の前で待ってる」と紗英にメールを送った。それは、紗英と久々にお出かけができることをとても楽しみにしていたからである。デートのような待ち合わせをしたかったのだ。15分後、私の名前を元気そうに呼ぶ紗英の声が聞こえてきた。
「修くーん!」
出入口の方を見ると、紗英が小走りにやってきた。白の花柄のキャミソールに短パンのジーンズ姿で赤色のサンダルを履いていた。頭には肩より少し長めの黒の髪型の鬘をつけており、その上から白のベースボールキャップを斜めに被っていた。
「紗英、危ない! 走るな!」
私は慌てて紗英のもとへ走って向かい彼女を抱きしめた。紗英は少しふらついたような状態だった。
「危ないよ、走ったら! しかも、なんか化粧濃いな」
私は紗英の顔を見て苦笑いしていた。
「だって、楽しみにしてたんだもん!」
紗英が少し恥ずかしそうに言った。彼女の額には少し汗が滲み出ていた。
 私達は病院からバスに乗り瀬野駅の方へと向かった。2人でゲームセンターに行ったり、デパートでお買い物をしたりした。紗英はまだ歩き慣れていないためか、途中足がよろけていたが、それでもなんとか1人でほとんど歩くことができた。倒れそうになる度に私は紗英を支えようとしたが、確実に彼女の体の機能は回復してきており、私はそのことが本当に嬉しかった。紗英とこのように街中を一緒に歩くことができることにとても幸せを感じていた。この日のお昼はデパートの8階にある洋食屋で食事を済ませ、その後、2人は紗英がアルバイトで働いていたカフェへと向かった。店内はとても広くて照明なども西欧風のもので飾られており、古い作りをイメージしたものであった。BGMにはクラシックが流れていた。テーブル席はゆったりとくつろげるスペースであり落ち着いた空間だった。勉強をしたりレポートを書いたりするには最適の場所だった。
「紗英ちゃん!」
「わぁ、橋本(はしもと)店長、久しぶり!」
紗英はとても気さくそうに1人の店員さんに向かって話した。
「大変だったね。でも、今日はわざわざ来てくれて本当にありがとう。紗英ちゃん、今日は特別に俺が奢るから遠慮なく注文してね!」
「店長、ありがとう! じゃあ、遠慮しないね!」
紗英は嬉しそうにして私の顔を見ると、メニュー表を開き注文する商品を選び出した。橋本店長は紗英がアルバイトで勤務していたカフェの店長であり、黒縁のメガネをかけ背が高くイケメンの店長だった。当時の年齢は36歳だった。紗英が働いていたカフェは大学生や20代半ばのスタッフが多かったため、紗英は最年少でとても可愛がられており、彼女は甘えたようなキャラであった。私はアイスカフェオレを注文し、紗英はアイスミルクティを注文した。2人ともガムシロップをグラスに2個ずつ入れ、相当に甘くして飲んだ。高校生ながらこのような喫茶店で飲むアイスカフェオレはとても美味しく感じられた。私と紗英はテーブルの上に受験勉強用の参考書やノートを広げて、しばらくの間2人で勉強した。実は、この日の前日に、紗英とのメールのやり取りで、このカフェで一緒に勉強をしようと約束していたため、勉強道具も準備していたのだ。紗英は英語や国語などの科目はとにかく強かった。彼女はアイスミルクティをストローで飲みながらシャープペンを握り、ノートに何かを書き込もうとしていた。すると、急に彼女の右手が止まった。
「思い出せない… 暗記してたのに…」
紗英が苦笑いして下を向きながら言った。
「だめだ、全然覚えてない。戦国時代からノートにあれだけ書き込んで覚えたのに。しかも、なんか、頭痛い…」
「紗英、大丈夫か? 無理するなよ」
「大丈夫。平気」
明らかに脳の病気による記憶障害だった。病気の様々な症状の辛さといったら決して本人にしか分からないものであった。彼女はそのままテーブルに両手をつけて顔を塞いだ。私は紗英の様子を見てとても心配だった。
「紗英! 久しぶり!」
そんな時、紗英のアルバイトの先輩である18歳の大学生の女の子2人が私と紗英が座るテーブル席へとやって来た。
「わぁ、真帆(まほ)ちゃん! 志乃(しの)ちゃん!」
紗英はその2人を見ると急に笑顔になって喜んでいた。2人は同じ大学に通っていた。瀬野高校の出身だったため紗英や私の先輩でもあった。女の子達の甲高い歓声のような声で私達の席は盛り上がっていた。
「ねぇ、私達もうすぐバイト終わるから、みんなでカラオケ行こうよ!」
真帆さんと志乃さんが紗英と私を誘うようにして言った。
「行きたい! ねぇ、修くん、はっし―(橋本店長の当時のあだ名 ※紗英と紗英のアルバイト仲間が身内で使用していた)も誘っていい?」
紗英が私に聞いてきた。
「あぁ、いいよ。みんなで一緒に行こう!」
「やったー! じゃあ、みんなで準備して行こう!」
私は紗英と2人だけの時間を過ごしたいというよりも、紗英が楽しく元気に過ごせる姿を見たかったので、紗英の気持ちを素直に受け入れた。
 15時過ぎ、5人でカラオケに行き、私達は楽しい時間を過ごした。途中、私は紗英のことが心配で何度も彼女に声をかけたが、彼女は特に体調が悪くなる様子も無く、ずっと元気そうにしていた。楽しい時間はあっという間に過ぎた。最後はみんながバスに乗って紗英のお見舞いに瀬野病院まで来てくれた。
「紗英ちゃん、焦っちゃだめだよ。とにかく今はゆっくり休んでね。みんな紗英ちゃんが戻ってくる日を楽しみにしてるよ」
橋本店長が紗英に優しく声をかけた。
「ありがとう! 店長、私がまた元気になったら、バイト先のみんなでカラオケとかボウリングに行こうね!」
「紗英、またお見舞い来るよ! 元気に復活したら、またみんなでバイト頑張ろうね!」
「うん、ありがとう! 早くまたみんなとバイトできる日を楽しみにしてる。真帆ちゃんと志乃ちゃんと同じ大学に行けるように勉強も頑張るよ!」
真帆さんと志乃さんが紗英に元気よく声をかけていた。みんな別れ際は笑顔であったが、紗英の姿を見て今にも泣きだしそうな表情だった。私達は病院を後にした。私と橋本店長は真帆さんと志乃さんと別れ、私達2人は駅の方向へと歩いて向かった。瀬野駅のロータリーに差し掛かったところで、橋本店長が私に話しかけてきた。
「修君、紗英ちゃんをどうか支えてあげてほしい。彼女がバイトに入ってお店も明るい雰囲気になった。彼女は本当に良い子なんだ」
橋本店長が自らの両手を強く握りしめた。少し体が震えているようだった。
「実は、5月に、陸上の試合がある前日、夕方シフトに入れる子が急に来れなくなって、紗英ちゃんに無理を言ってシフトに入ってもらったんだ。でも、紗英ちゃん、出勤してから1時間も経たないうちに気分が悪いと言ってトイレで吐いてしまった。 その時に、俺が無理にでも紗英ちゃんを家に帰していればよかった。彼女、その時、今日は人も少なく忙しいからって、わざわざ夜8時まで残って働いてくれた。もし、紗英ちゃんが早く上がっていればきっと病気も早く見つかったはずなのに… 本当にすまない!」
私は、なんと返事をしていいか分からなった。ただただ、橋本店長が悔しがる以上に私は私自身を悔しがった。
「俺には6歳の娘がいて、紗英ちゃんの試合をよく娘と一緒に観に行くんだ。いつも、「頑張れー!」って娘は応援している。紗英ちゃんみたいに足が速くなりたいと言ってるんだ」
「橋本さん、僕、これからお店に1人でも行きます。お店の常連になります。そこで、受験勉強も頑張ります。紗英がいなくても… でも、絶対に紗英をまた元気な姿で連れてくると約束します!」
「ありがとう。楽しみに待ってるよ」
橋本店長は目に涙を浮かべていた。
「修君、いつか娘と一緒に走ってやってくれないか? まだ6歳だから長い距離は走れないけど。紗英ちゃんは、「修くん」に走る時のフォームを教わってここまでこれたって、アルバイトのみんなにいつも自慢気に話していた。だから、もし、娘と一緒に走ってくれたら、きっと娘は喜んでくれるはずなんだ」
 その日の夜、私は橋本店長と2人で駅前の定食屋でご飯を食べた。
「修君、今日はありがとう。陸上と勉強の両立は大変だけど、今が勝負所だよ。頑張ってね!」
「はい! こちらこそありがとうございます! またお店にも遊びに行きます!」
私は、電車に乗ろうとする橋本店長と駅の改札のところでしっかりと握手をして橋本店長を見送り、自宅へと帰った。