家光は自分と同じように病弱な
身体を薬草により体質改善して長
生きした家康に見習い、品川と牛
込に薬園を造ることを命じ、道春
を指南役とした。
 道春は和漢の薬草が集められる
と効能ごとに分類し記録していっ
た。

 寛永十六年(一六三九年)
 この年も凶作の影響が残り、家
光は諸大名、旗本にさらなる倹約
を命じた。そしてキリシタンに影
響力のあったポルトガルとの国交
を禁止して、海に面した藩には不
法入港を監視するように命じた。
また他の外国船も肥前、長崎を唯
一の入港先とした。
 このことで外国との交易を収入
源としていた大名の中で不信感が
わき、家光への信頼が失われてき
た。それを払拭するため、家光は
わずか二歳の長女、千代を尾張、
徳川義直の長男、光義に嫁がせて
義直との絆を深め後ろ盾とするこ
とを決めた。これには義直から私
塾に先聖殿を寄進された道春が間
をとりもった。これがきっかけと
なり江戸城、本丸の近くにあった
富士見亭御文庫が紅葉山に移され
整備された。