秀忠という足かせがとれた家光
は滞っていた政務に自ら手を着
け、問題のある諸大名は外様だけ
でなく譜代、旗本といった身内で
さえ次々と改易し、幕府組織の再
編を行い、法制度の見直しを始め
た。このすばやい対応に誰も反発
する隙がなく、秀忠の陰は一気に
消え去った。
 家光は厳しい処罰をする一方、
紫衣着用の勅許の件で配流にした
沢庵宗彭、玉室宗珀を赦免とする
など処罰の公正にも努めた。
 難問だったのは甲斐に蟄居して
いる弟、忠長の処分で、所領とし
ていた駿河、甲斐を没収し上野、
高崎城に幽閉することに決めた。
 かつて秀忠の弟、松平忠輝も秀
忠との確執から伊勢、朝熊山へ配
流となりその後、飛騨、高山に移
り、今は信濃、高島城に幽閉の身
ながら、城主の諏訪頼水に持て成
され、温泉や俳句、茶などを楽し
み、幕府に刃向かうこともなく質
素な暮らしをしていた。
 家光は忠長にも忠輝のような生
き方を見つけてほしいと願ってい
た。それが幕府を二分して再び戦
乱の世にしない唯一の方策と考え
ていた。