『奥様』って呼んだのはもちろん、圭さんじゃない。
声のしたような気もするキッチンを見ると、出入口にちょっとふくよかな女性の姿があった。
「初めまして、奥様」
こちらまで歩み寄って深々とお辞儀をされた。
薄紫色のブラウスにパンツスタイル、白髪混じりの髪はぴっちりと後ろで丸くまとめられている。
顔を上げると
「お世話になっております、家政婦の佐々木 和乃です」そう自己紹介をされた。
微笑むと年齢相応と思われる、目尻にしわの浮かぶ物腰柔らかな女性だった。
年上の佐々木さんに再度、深々と頭を下げられて
「葉山弥生と申します」反射的に私もお辞儀で返した。
でも、これって奥様って呼ばれたことを肯定してしまったような…
「和乃さん、」
私の目の前にいた圭さんは、立ち上がると佐々木さんに声をかけた。
「葉山さんは、奥様じゃないから。まーだ、親父の婚約者」
そう言われた佐々木さんの、圭さんを見上げる目が一瞬だけ大きく開いた。
でもすぐに何事もなかったように柔らかな表情に戻ると、
「そうですね、では弥生様と呼んでも?」私に尋ねた。
「ダメです! 様はやめて下さい!」
胸の前で両手を激しく振る私を、佐々木さんはおしとやかに笑った。
「では弥生さん、私のことは和乃って呼んで下さい。ご家族皆さんにそう呼ばれてますから」
「…はい」
果たして彼女を呼ぶ場面が訪れるのか。
それでも、とりあえず肯定の返事をするしかなかった。