『ご存知』 って、言われたお母様のこと。
 専務に奥様がいないって、そもそも私は知らなかった。
 兄弟にお母様がいないのは、離婚したから?
 それとも亡くなられた?

 何も知らないし、何を聞かれても答えられない。
 家政婦ならまだしも、専務の婚約者のフリなんて絶対に無理。

 やっぱり早くここを立ち去った方がいい。
 会社は辞めたんだし、専務にも二度と会うことはないと思う。

 だから毅然とした態度で立ち上がった。
 もちろん立つ直前に、ぬかりなく自分のバッグは掴んだ。

「一晩お世話になり、傷の手当てまで、本当にありがとうございました」

 一礼して顔を上げた時だった。

「奥様、」

 お屋敷のどこからか声がした。
 奥様がどこかに?
 反射的に後ろを振り返った。

 “後ろ” とは、私が今から逃げ出そうとしていた玄関の方角。
 でも誰もいない。

 顔を前に戻せば、うなだれて眉間を押さえる圭さんがいた。