いよいよ今日は成人を迎える日だ。
 アレクシスは一人、森の中を進んでいた。赤い屋根の、赤ずきんのおばあさんの家を目指していた。
 今頃、赤ずきんは村外れでアレクシスを待っているだろう。アレクシスの嘘を信じて。彼の逃亡を手引きするために。
 どうせ今日を境に嫌われる…それでも彼女との鉢合わせだけは絶対に嫌だった。
「…」
 アレクシスは一晩かけて想像した。
 まず、幼い頃から容赦なく自分に手を上げてきた侍従が殺される。そして七人いる傍付のメイドに母代わりの乳母、おそらく見習い小姓の子どもたちも殺されるだろう。
 数だ、とアレクシスは自分に言い聞かせる。一人の命で十人以上の命が購えるのだ。
 これは正しい決断だ。
「…」
 寝不足と緊張でふらつきそうになりながら、アレクシスは歩み続け、ついには家の前まで来てしまった。
 息を吸うと喉が震えた。取っ手を掴むと指先が震えた。慎重に手に力を込めると、そっと扉を開く。
「まぁ、アレクシス」
 家に侵入するとすぐにおばあさんが彼に気付いた。ノックもせずに勝手に上がり込んできたアレクシスをにこにこと迎える。
「どうしたの、急に。赤ずきんも一緒?」
「いや…」
「今日は一人なのね。おばあちゃん嬉しいわ、ハンサムさんがこんな頻繁に来てくれて」
 少女のようにおばあさんは笑う。しわが目立つものの肌つやは良く、心も体も健康そうなおばあさんだった。
 彼女は、アレクシスが思っていたような孤独な老婆ではないのだ。
「あの…、祖母君…」
「少し待っててね。昨日ケーキを焼いたのよ」
 いそいそと立ち上がり、背を向けたおばあさんはちらりとアレクシスを振り返る。
「それとも、狼さんはケーキを食べない?」
 悪戯っぽく言うその様子に赤ずきんが重なって、アレクシスは頭を思い切り殴られたような気持ちになる。
 初めから自分が毒の杯をあおればよかったのではないのか。
 自分だっておばあさんだって、同じ一人だ。
「…アレクシス?」
 ようやくおばあさんはアレクシスの異変に気付いたようだった。初めて会ったときから内気な青年だとは思っていたけれど、今日はなんというか―――
「アレクシス、あなた顔色が悪いわ」
「祖母君…わたしは…」
 アレクシスの目の前に侍従がちらつく。「あなたは王になるのです」あれはあれで愛情深い男なのだ。「殿下は立派な王になれます」「ぼくたちアレクシス様のような大人になりたいです!」「殿下しかおられません」「殿下しか」たくさんの供の顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
 気付いたら、おばあさんの肩を掴んでいた。
「どうしたの」
「…」
「痛いわ…」
 ほとんど熱に浮かされるようにアレクシスは右手で腰の後ろに差した短剣を握る。元気そうでも、相手は非力なおばあさんだ。大丈夫だ。多少手が震えていたって、殺すのはたやすい。
「アレクシス…?」
 アレクシスは鞘から短剣を引き抜くと、ゆっくりと手前に掲げて―――
「やはり…むりだ」
 手から短剣を滑り落とした。
 短剣は誰を傷つけることもなく、古びた木の床に突き刺さる。
「あらあら」
 状況が分からないおばあさんの声が暢気に響いた。
 そのとき。
「貴様!」
 開いていた窓の向こうから怒声が聞こえた。
 アレクシスがびくりと耳を震わす。声の主はそのまま窓から家に入り込み、こちらに近づいてくる。
 銃を背負った若い猟師だった。
「あら、デニス」
 明るい声を出すおばあさんを背中にかばいながら、若い猟師はアレクシスを睨みつける。
「黒い毛並み…もしかしてお前がアレクシスか」
「…」
 アレクシスが無言で肯定する。
「は! やっぱり嘘だったんだな。獣なんて信用できたもんじゃない」
 デニスからは敵意がしたたるようだった。
「なにが人間を襲わないだ。赤ずきんみたいな純粋な子は騙せても、僕はそうはいかないぞ!」
「どうしたの、デニス」
「おばあちゃん、今危ないところだったんですよ!」
 デニスは足下に刺さった短剣を蹴りつけて、遠くへやった。
「こいつはおばあちゃんを殺そうとしていたんです」
 とっさに違うと言いそうになったアレクシを代弁するようにおばあさんは首を横に振る。
「そんなはずはないわ。アレクシスは優しい子ですよ」
「あなたに掴みかかってたじゃないですか」
「あれは…、なにか言いたかっただけよね」
 おばあさんはアレクシスの目を覗き込んだ。
 アレクシスにはもう耐えられなかった。
「…すまない…!」
 鋭く詫びて身を翻す。背後からは若い猟師が銃を向けてくる音がした。
「こら、デニス。やめなさい」
「おばあちゃん! こいつは危険な獣ですよ、だから―――」
 アレクシスはそのまま振り返らず、全力で森へと逃げ帰っていった。