それは時間を無くす者の常でした。随分と眠たい朝に後もちょっとだけ、もちょっとだけと片目を開けながらゼンマイを回すのです。カチカチ、カチカチ、ほんの五分。そのほんの五分は摩訶不思議にもすぐに消えて無くなります。
「あの時間はどこに消えしまったんだろね」のっそり起き出し歯を磨きながらぼうっとしてそして考えるのです。
起きていてもそれは変わりません。歯磨き着替えとスープとパン。それしきの支度をする間にチクタっと針は形を変えます。
「全くまあ、時計の奴も忙しない。飛び跳ねてるね」思いながら急いで家を飛び出して、それから駅へ走る間も、電車に揺られる間も、また駅から会社までも、すぐにすぐに時間は消えて行くのです。周りの景色の変わりを楽しむ隙なんてどこにもないのが恨めしいやら残念やらの毎日です。
会社の中ではより一層時間は慌てていました。時間が慌てるもんだからこちらも慌てる訳ですが、あの時間の野郎はしゃぎすぎてるようにも思うのです。
瞬き一つチカリとする間に感じてしまう位です。瞬き一つ、そうしましたらもうお昼です。お昼の休憩ったら時間と駆けっこでもしてるみたいに感じます。時計の数字が二つ三つ無くなってるのかしらと時計を見ても変わりません。
部長はいつも同じ文句を決めて言います。
「おいおい。あの書類。そうそうあの言いつけてあったあれあれ、あれはどうなったもんかな」
何故か部長ったら、こんなにも時間が早く無くなってしまうにも関わらず、まるで呑気そうに毎日机で新聞なんぞ読み散らかしていて、「こんなにすぐに消えては無くなる時間が惜しくないなんて、堂々としたもんだ」と感心してしまう次第なのです。
彼は私なんかと違い、毎日毎日おやと気付けば無くなる時間の事なんてまるでどうとしたもんでもないのです。ゎ
時折、「もしかしたら自分だけが時間をどんどこ無くしてるのではあるまいかなあ」と疑問を抱いて時計を睨み付けてやるのですが、そんな時は余計に早く針が進んでいて、「ありゃりゃ、ついうっかりまたしてやられてしまった」とうな垂れるのです。
「時計の針もうな垂れて、揃って下を向いておる」と微笑ましく思ったりするとオレンジ色の光に気が付きます。綺麗なオレンジ色だ事と窓に目をやりますと、お日様までもがうな垂れかかり、辺りはもう夕方。お日様と時計は仲が良いのです。
沢山消えた時間はもう使えたりはしませんので、それからお日様が完全に消えて無くなるまで仕事は続きます。
今日も残り僅かと云う所まであっという間ですが、ようやく帰り支度を始め電車に乗る頃には時間の奴も幾らか疲れたのか心なしかゆったりと消えて行くのを知っています。


風呂に入りながら思うのです。
「この地面の下には今まで皆から消えて行った時間がゴミより沢山埋まっておるんではなかろうか」
熱い湯に茹でられながら、今はどんだけ時間が消えてしまおうがゆるりとさせて貰うよ、のんびり過ごさせて貰うよ、とブクブク湯の中で呟いたりします。
布団に入ると良い気持ちに力が抜け出して、辺りのしんとした音が眠りを誘って来るのです。そんな時でも時間の無くなる音は休みません。
コチンコチンと変わらず忙しく地面へ消えます。コチンコチン、コチンコチン。
「そう急かされたとてな、今日はもう眠りたいのだから、出来ればもう幾らかゆっくり消えて行ってくれないもんかねえ」しかしそれでもコチンコチン無視して音は鳴り続けますので、眠った振りをしてパッと時計を見てやるのです。
そんな時に限ってバラバラ急いで消えたりせずに、細っちょい針だけは割とこ忙しく動いていても後の奴はまるで止まっているようにジッとして見えます。細いのんだけがクルクル回って何をしとるんだと思いますが、どうせ目を閉じて眠りほうけた途端にここぞとばかり動き回ってどこどこ時間を消して行くのはお見通しなのです。
「こいつらめ」と諦め半分、下をチョっと鳴らして布団に潜る。そんな毎日です。

ある日夢を見ました。
地面の下に消えた時間が、ドルンと音を立てて火山の噴火の様に飛び出して来るのです。
慌てて時間を拾い集めようとするのですが上手い具合に降って来ません。
沢山集まって皆手を広げていますが、誰も消えた時間を手にした者はいません。
その中に部長も新聞片手に右往左往している姿もありましたが、「あの人も時間が惜しいとみえる、贅沢な人だ事」とくすりと笑った所で目が覚めたのです。

そしてそうやって毎日はころころ転がる様に過ぎて行きます。時間とお日様は大変仲が良いので仕方がありません。
気付けば消える時間の中で、おやと思う事がしばしばありました。それも思えば仕方がありません。時間が消えれば皺が増えるのです。消えた時間の分だけしなりと皺が伸び、いつしか皺がしわしわに沢山、ああここにも、こんな所にもと身体や顔を這うて行きます。

時間が沢山目に留まらぬ早さで消えて無くなって行きましたので、長かったとは到底思えないのですが、ある日の明日、会社勤めが終わる日が来ました。
「こんままさ、すんすん時間が消えて行きゃ、気が付いた時にゃもう死んで墓に入ってるんじゃなかろうか」
その日の晩、またあの夢を見ました。時間の火山がボボルンと噴火したあの夢です。
地面の中から時間がザワザワザと溢れ、皆はまた手を広げていました。部長はもうとっくに仕事をやめていましたが、同じ様に手を広げていました。手には新聞は持っていなくて、何か他のモノを持っていたのですがよく見えませんでした。
どうにもこうにも随分と時間とかけっこをして今まで来ましたし、放っておいてもまたすんすん消えて行く時間を惜しむつもりもありませんでしたので、ややあってから夢を自分から出て行きました。
どうやら目覚まし時計より早く起き出したようで、お日様は薄く明かりを灯していてチヨチヨと鳥の鳴く声がするのです。
もう身体はテキパキとは動きませんのでのそっと支度を済ませ、最後の通勤に向かうのです。駅までもままありますがなるだけ急がずに景色の見納めを楽しんだりしながら……

「おじいちゃんよい。あっちでお母さんがまん丸冷えた西瓜を切ったよ。一緒に食べよう」
孫がそう言って活発で心地よい声を高くあげます。
居眠りをしておった様子でした。
小さく良い香りのする頭を撫でたりしながら聞きました。
「ようさん寝てたかい?向日葵は俯いたかい?」
孫はお日様に当てられ火照る顔を上向きにしてそれは綺麗な汗をつつっと垂らします。
「向日葵はお日様ある内は顔上げっぱなしよ。まだあんなまん丸に上の方にあらあ。夕方なったら帰らんとなあ。まだ昼間だけれど、すぐにすぐに陽が暮れてしまわあ。暑いし西瓜はよ食べよ」
いつから居眠りしたものか、随分とゆるり寝ていたようですが、オレンジの光はまだ先な様でした。
暑いのはかないませんが、もう少し孫と過ごしたいとも思うのです。
最近は妙におかしく、お日様の顔を出すのもまあゆったりしたもんで、相変わらず仲良しの事で高く昇るのにえらいしんどそう。そっからまたのんびり降りてまるでどっからか時間が溢れて来て、湯呑の茶を足す様に注がれているんじゅないかしらなあと思うのです。
そんな時は地面を杖でコツコツと叩きながら歩いたりしてみます。
孫がはつらつと呼ぶものだから腰を上げようとした時、時計を見やりました。随分とまあ、あれも歳を食ったようで、今ではとんと動きません。「ほれ、お前も疲れたようだね」しんと静まった時計はものも言わずたいして動きもしませんでしたが、今は私とも仲良くやっております。