待って。
 言葉を出すよりも先に、颯見くんの制服の裾を掴んでいた。

「哀咲……?」

 颯見くんが、立ち止まって振り返る。

 ドクドクと鼓動が時を刻む。
 裾を掴む指が、震える。

 どうしたら、この気持ち、伝わるんだろう。謝られることじゃない。期待してた。怖くなんてなかった。

 裾を掴む指に力を入れる。

 ――颯見は人の言葉を絶対蔑ろにしない。だから、態度じゃなくて言葉で伝えてやって

 不意に。吉田くんの声が、脳内で反響した。
 ハッとして、掴んでいた裾を離す。

「哀咲?」

 颯見くんが、優しい声でもう一度私の名前を呼んだ。
 肺に酸素がゆっくりと満たされていくのを感じる。

 そうだった。吉田くんのいう通りだ。言葉で伝えたらいいんだ。

 去年の体育祭。高二になってすぐのクラス会。言葉で伝えることを後押ししてくれたのは、紛れも無い、颯見くんだった。

 言葉で伝えるのは、緊張もするし、勇気もいる。だけど、とても大切なこと。それを教えてくれたのは、颯見くんだ。

 颯見くんは、優しいから、いつも私の言いたいことを先に察してくれているけれど、それに甘えてばかりじゃダメなんだ。

 私は、颯見くんに伝えたいことが、たくさんある。伝えたい想いが、たくさんある。受け止めてくれるかは、わからない。少し、不安。勇気はいつも、颯見くんからもらっていたから。だけど――。

 さっきまで裾を掴んでいた指を、拳の中にぎゅっと入れ込む。

 緊張しているのかな。
 鼓動が耳の奥で鳴り続けている。

 小さく一回深呼吸をして、颯見くんの目を真っ直ぐ見た。

「私、さっき、期待してたの」

「え?」

 颯見くんは、その一音だけ音を漏らして、目を見開いて固まった。

「本当は、颯見くんと、き、き、キス、するの、期待して、勝手に妄想、して、」

 引かれているかもしれない。
 そんな思考が、頭の隅に住み着いている。

 だけど、もう、引き返せない。

「昨日、颯見くんが、簡単にそういうことしないって言ってたの聞いて、落ち込んで、自分が恥ずかしくなって、」

 今吐いている言葉を止めるのが怖くて、息をする間も無く続けた。

「それで、颯見くんの顔を上手く見られなくなってしまって、ご、ごめん、なさいっ」

 上手く伝えられているか、なんてわからない。

 この期に及んでも臆病な私は、上手く伝わってない方が、引かれる心配がなくて良い、とすら思えてくる。

「わ、私、本当はっ」

 颯見くんの目を見ているのが、恥ずかしくなってきて、視線を逸らした。

「本当は、私、颯見くんが思ってるような、人間じゃなくて……すごく、ふ、不埒で……すごく、下心がっ」

 急に鼓動が息を押し上げて、喉に空気が詰まった。それによって訪れた一瞬の沈黙が、頭の片隅に住み着いていた不安を引き立てる。
 慌てて次の言葉を繋ごうと息を吐き出すと、肺が刺激されて咳き込んでしまった。

「哀咲っ、大丈夫?」

 颯見くんが慌てて私に近づいて、背中に手を回した。
 その手を上下に動かし心配してくれている颯見くんを前に、ゴホゴホと咳込む音が沈黙を消してくれていることに、安堵してしまっている自分。

 だけど、咳も長くは続かない。落ち着いてきた呼吸が、この場に静寂を取り戻していく。

「あ、あの、」

 穏やかな呼吸を繰り返しながら、静寂を打ち消すように声を出した。

「ん?」

 颯見くんが、背中に回していた手をそっと離して、顔を覗き込む。

「だから、えっと、」

 次の言葉を考えていなかった私は、頭の中でグルグルと思考を動かしながら、意味のない声だけを吐いて、その場をやり過ごす。

 だけど颯見くんは、それを見越してしまったのか、私に視線を合わせたまま、フッと優しく笑った。

「哀咲」

 いつもの、優しい颯見くんの声。
 胸の奥がくすぐられる。

「俺、今すげー我慢してんだけど」

「え?」

 思わぬ言葉を言われて、鼓動が音を鳴らした。

 何を我慢してるのか、なんて、わからないのに。もしかしたら私の言葉に引いてしまったっていう意味かもしれないのに。
 どうしても、悪い意味ではないような、そんな空気を感じて、心臓が騒いでいる。

「絶対俺の方が、哀咲とキスしたいって思ってる」

 思わずはっと息を吐いた。

 ――絶対、颯見の方が、雫にキスしたくてたまんないとか思ってるよ!
 倖子ちゃんの言葉が脳内で蘇る。

「俺の方が絶対、もっと不埒なこと考えたりしてんの」

 颯見くんの言葉と視線に、ドクドクと脈拍が間隔を縮める。

 頬が、熱い。

「俺こそ、たぶん、哀咲が思ってるような人間じゃないよ」

 そんなこと、私を慰めるために言ってるだけのことだってわかるのに。

「俺がどんな不埒な人間か、知らないだろ」

 そう言って笑った颯見くん。
 
 颯見くんが不埒なんて想像がつかない。きっと私のためにそう言ってくれているだけ。

 笑い返すと、颯見くんの手がスッと私の熱い頬に届いた。

「……嫌な時は、拒否したらいいから」

 さっきまでとは一変した、少し震えた声。
 それが、妙に脳と鼓動を揺さぶって、緊張が走る。

 キス、されるのかな。
 激しくなる鼓動が、耳の奥で主張を増した。

 脚が、勝手に震える。

 ゴクリと、颯見くんが、唾を飲み込む音が聞こえた。
 いや、自分の音かもしれない。

 ゆっくり、ゆっくり。颯見くんの綺麗な顔が近付いてくる。

 視線のやりどころがわからなくて、目だけであちこち視線を動かす。

 静かな階段に、少し震えた颯見くんの息遣いと、鼓動の音。
 颯見くんの、爽やかな匂い。

 どう呼吸をすればいいのかわからなくて、息が苦しい。

 近くなっていく颯見くんとの距離に緊張が耐えきれなくなって、目を閉じた。

 視界を遮断してから、数秒。
 今までより明確に、颯見くんの爽やかな匂いが鼻をかすめたと思った瞬間。

 唇に、柔らかな感触と温度が、重なった。

 爽やかな匂いに包まれる。
 緊張と、高揚で、目眩がしそう。

 そっと、触れていたものが唇から離れた。

 ドクン、ドクン、と、脈はまだ大きく唸っている。

 ゆっくりと目を開けると、三十センチほどの距離にいる颯見くんの視線と繋がった。

 は、と、いつの間にか止めていた呼吸を吐くと、フッと柔らかく笑う颯見くん。
 ドクン、と、また大きく脈がうねる。

 私、颯見くんと、キス、したんだ。
 
 その事実が、ドクドクと体の熱を上げていく。まだ、震えはおさまらない。

 こんなにすごいことを、世の中の恋人達はやっていたんだ。

「哀、咲、」

 いつもより、少しぎこちない颯見くんの声が降ってくる。

 緊張で喉が詰まって声の出せない私は、その声に応えるように颯見くんを見つめた。

「帰ろっ、か」

 くしゃ、と自分の髪に手を当てて颯見くんの顔が半分隠れる。
 颯見くんの、いつもの癖。

 私が震える首でぎこちなく頷くと、颯見くんは髪に手を当てたまま体の向きを変えて、階段を上り始めた。その後ろを、震える脚でついていく。

 カサ、カサ、と、足音と布の擦れる音。遠くから聞こえる、練習終わりの開放的な話し声。
 
 階段を上り終えても、廊下を歩いていても、無言のまま。そのせいで、さっきのキスのことを何度も思い出してしまう。
 胸の奥が、熱い。