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 教室に入ると、まだクラスの半数ぐらいが残っていて、ガヤガヤと楽しそうにお喋りを繰り広げている。
 体育祭前は部活がないから、いつもとは違う特別感で、みんな浮き立っているみたいだった。

 こういう空気は、少し好き。

 そんななかで、ひときわ賑やかな男子の集団に目がいく。男子に囲まれて、楽しそうに笑う颯見くん。

「あ! おかえり!」

 パチっと視線が繋がって、ドキッと心臓が跳ねた。
 さっきまで倖子ちゃんと話していたことが、また蘇る。

 私、さっきまで、颯見くんとキスするところ、勝手に想像してしまってたんだ。
 急に顔が見れなくなって俯くと、隣からクスッと倖子ちゃんの短い笑い声。

「雫、頑張れ! いい報告待ってるね!」

 ポンポンと肩を叩かれて顔を上げると、倖子ちゃんは楽しそうに席に戻っていった。

「哀咲、」

 ふと気付いたら隣に準備を済ませた颯見くんが立っていて、柔らかい笑顔が落ちてきた。

「帰ろ」

 優しい声に、火照ったままの頬を隠すように頷いて、帰る用意を始める。

 颯見くんの視線が私に向いていることがわかるから、なんだか緊張してしまう。
 今はそれだけの理由じゃないけれど。

 荷物を詰めた鞄を持って振り向くと、思ったよりも至近距離に颯見くんが立っていて、ハッと息を吐いた。

「颯見ぃ、俺を置いて先に帰るのかー」

「ドンマイ吉田、頑張れ居残り補習!」

 颯見くんの制服の白シャツが、笑い声に合わせて動く。

 颯見くんはいつも通りなのに、私だけが、なんだか意識してしまってる。

「やだよー、俺を見捨てるのかよー」

「俺は授業ちゃんと聞いてたし」

 少し視線を上に上げれば、颯見くんの襟元から延びた首と、ハッキリ存在感のある喉仏。女子とは違う、ゴツゴツした喉元。

「くっそー、俺も彼女ほしいー!」

「ははっ、急だな」

 笑うたびに、動いてる。

「いいよなぁー、今度教えろよー?」

「何をだよ」

 その首筋を上っていくと、形の良い、口が、唇が、柔らかそうに――。

「そんなの決まってんじゃん。キスとかその先の――」

「ばっ、するわけねーだろ!」

 鼓膜に轟いた颯見くんの声に、パッと不埒な思考が途切れた。

 シン、と沈黙が教室を覆う。
 一瞬の間を置いて、ドクドクと脈が押し寄せ始める。

 私、今、何を考えてたんだろう。
 目に映っているのは、颯見くんの薄く開いた唇。

 キス。倖子ちゃんに言われてから、もうそのことばかり意識して。
 自分の思考回路が恥ずかしくなって、慌てて颯見くんの唇から視線を逸らした。
 なんて不埒なことを考えているんだろう。

 そう思った時、隣から颯見くんの小さな息遣いが聞こえた。

「俺は簡単にキスとかそういうことしたくねーから」

 颯見くんのいつもより低い声が、ひどく脳を揺り動かした。ドンと重石が乗ったみたいに頭が重くなって、動かない。

 颯見くんの言葉が、もう一度脳内で反響した。
 徐々に動き出した思考が、その言葉の意味を反芻する。

 倖子ちゃんが、言っていた。
 ――絶対、颯見の方が、雫にキスしたくてたまんないとか思ってるよ!
 それを私は真に受けて、期待なんかして。恥ずかしい。

「えー、俺だったらキスしまくるけどな」

「は!? 誰に!?」

「おっと落ち着け颯見。俺の未来の彼女にだよ」

「あー……頑張れ」

「え、全然俺のこと興味ないじゃん。好きな女子いるのかとか聞かないの?」

「……好きな女子いるのか?」

「今はいない」

「…………。じゃあ先生に吉田の補習みっちりやってもらうよう伝えとくなー」

「え、おい!」

 颯見くんと吉田くんの会話が頭上で流れていく。

「じゃあな吉田! 補習頑張れよ」

「ちょっと待てよー薄情者ー」

 オイオイと泣き真似をしながら手を振る吉田くんに見送られて、颯見くんと一緒に教室を出た。
 いつもと同じように、颯見くんの隣に並んで廊下を歩く。

 頭が重い。ショック、だった。

 ショック、なんて、厚かましい。これ以上何を求めるの。

 私の隣には、颯見くんがいる。ずっと片思いだったのに、今、颯見くんも私を好いてくれていて、隣を歩いてくれている。
 それなのに、もうそれだけじゃ足りないとでも思ってるのかな。

 こんなに奇跡みたいな今の状況で、これ以上を求めるなんて、私はどれほど厚かましくなってるんだろう。どれほど傲慢になってるんだろう。

 こんな傲慢なことばかり考えていたら、そのうち颯見くんにも呆れられてしまって、この幸せすら失ってしまうかもしれない。

 ちゃんとわきまえなきゃ。