番外編2 その先は


「いくよー! せーの!」

 いーち、にーい、と声を合わせて、回ってくる縄の上を跳ぶ。

 蝉が鳴くのをやめた九月の中旬。体育大会の季節。

 放課後のグラウンドには、各クラスの大縄練習の掛け声が空高く響いていた。

「惜っしー! あと三回跳べたら百回いってたのにー」
「うーわ悔しいー。けどもう足上がんねー」

 97の掛け声の直後に誰かに引っかかって止まってしまった縄。
 普段あまり運動しない私には、肺も足も限界を超えていて、みんなの呼吸に混じって息を吐く。

「今日の練習はここまでっつーことで!」

 体育委員の吉田くんが右手を挙げながら叫んだ。
 途端に、整列された列が乱れてみんなが思い思いに散っていく。

「哀咲さーん、疲れたねー」
「倒れそうになる前に言うんだよー?」
「あと三回、悔しかったー」

 思い思いに、声をかけてくれて、思い思いに、手を振ってくれて。頷きながら手を振り返して、去年の今頃のことを思い出した。

 初めは上手くいかなくて険悪な空気だったムカデ競争。
 ずっしりと重くなった心も、呼吸の苦しさも、あの時は確かに感じていたのに。もうそんなこと思い出せないぐらい、その後に嬉しい以上の気持ちを経験した。

 颯見くんに背中を押されて、初めて伝えた思い。

 ――友達になりたい
 初めて出来たクラスの友達。
 下の名前で呼んだり、クレープ屋に行ったり、ムカデ競争の練習すらも楽しくて。
 全部、初めての経験で、初めての感情だった。

 もう、あれから一年が経ったんだ。


「颯見ぃー、俺もう歩けねー」

「うわっ、寄っ掛かんな重い」

 聞こえた声にハッと思考を止める。爽やかな風が吹き抜けた。
 反射的に目を向けると、男子に囲まれた颯見くんが楽しそうに笑ってる。
 思わず、トクン、と心臓が音を鳴らした。

 颯見くんと付き合えてから、もう二ヶ月が経つのに、私は片想いしてたときと全然変わらない。
 遠くから、皆んなに囲まれる颯見くんを見つめて、鼓動を鳴らしてる。

 そんなことを考えていたら、颯見くんの視線がスルリと周りの友達を抜けて、私に向いた。

「哀咲! 先に教室で待ってるから!」

 くしゃっと笑う。
 その瞬間に、春みたいな風が前髪を揺らして、滲んだ汗を拭い去っていった。

 大きく頷くと、もう一度くしゃっと笑って、男子達と一緒に歩き出す颯見くん。

 トクン、トクン、と鼓動が音を立てて煩い。好きだなぁって心臓が訴えてる。

「癒し系カップルだねぇ」
「ラブラブだぁー」

 そんな声が聞こえて、急に恥ずかしくなって顔を俯けた。

「しーずく!」

 ポン、と一瞬だけ肩に重みが乗って、ハッと振り返った。

「颯見と相変わらずラブラブじゃーん」

 倖子ちゃんがニヤリと口角を横に伸ばす。
 また頬に熱が集まったのがわかって、それを振り落とすように首を振った。

「照れてる照れてる」

「ち、ちが、」

「隠す必要なんてないじゃん? クラス公認カップルなんだから」

「あ、え、そ、」

 言葉にならない声を漏らしていると、倖子ちゃんはフッと短く笑った。

「あたしは雫が幸せそうで嬉しいよ」

 そう言った倖子ちゃんの声には、さっきまでのからかうような含みは無くなっていて。

「あ、ありが、と」

 言うと、倖子ちゃんは嬉しそうに笑い返してくれた。

「教室戻ろ」

 そう言って歩き出した倖子ちゃんに頷いて、隣を歩く。

 倖子ちゃんは私が颯見くんに片思いしていた時、辛い時にいつも味方で応援してくれていた。私の黒くて汚い感情も、全て知った上で、私の味方でいてくれた。

 一緒に悲しんでくれて、一緒に喜んでくれて、一緒に泣いてくれて、一緒に笑ってくれる。
 友達ができる前の私には想像つかなかった。友達って、こんなに心強くて、温かい。勿体無いぐらい。

 大西さん達や、クラスの女子達も、話しかけてくれて嬉しくて楽しくて温かいけれど。倖子ちゃんだけは、なんだかそれ以上に特別な気がする。
 もちろん、颯見くんに感じる“特別”とは全然違うものだけれど。

「ねー雫、」

 隣を歩く倖子ちゃんが、楽しそうに声を出した。
 何だろう、と思って倖子ちゃんに目を向けると、倖子ちゃんはまたニヤリと口を延ばして私に視線を向ける。

「颯見とはどこまでいった?」

「へっ?」

 思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
 また何かからかうようなことを言われるのかと思っていたのに。
 身構えていた頬から力が抜ける。

「えっと、地元の夏祭り、に、行ったよ」

 答えると、今度は倖子ちゃんが「へ?」と声を漏らした。
 ポカン、と、口を開けて私を見る倖子ちゃん。

 あれ、私何かおかしなこと言ったのかな。

 わからないまま倖子ちゃんの表情を伺っていると、倖子ちゃんは暫くして、あー、と声を漏らして笑った。

「違う違う、そうじゃなくて、」

 なんだか面白そうに、くくく、息を吐く。

「手繋いだり、キスしたりさ、そういうのどこまで進んでんのかなーって意味」

 倖子ちゃんの声が、鼓膜を伝って、心臓を大きく揺り動かした。

 手を繋いだり、キスをしたり。
 考えると、ドクドクと脈が熱を帯びる。

 特に、キス。
 私と、颯見くんが、キス……?
 ふわりと浮かんだ妄想に、一気に脈が速度を上げた。
 頬が熱い。

「キ、そんな、私、」

「雫顔真っ赤」

 指摘されて、咄嗟に顔を手で覆った。

 恥ずかしい。すごく、恥ずかしい。
 だけど、颯見くんとキスする日が来るのかな、なんて少し期待してしまう自分が、もっと恥ずかしい。

 キス、って、どんな感じなんだろう。どんな風にするんだろう。
 颯見くんに抱き締められるだけでも、あんなに鼓動が煩いのに、キスなんてしちゃったら、どうなっちゃうんだろう。

 颯見くんと、キス。
 また想像してしまって、それを振り落とそうと頭を振った。

 隣から倖子ちゃんの笑い声が飛んでくる。

「ははは、颯見とキスすんの想像したでしょ」

 図星を突かれて、ハッと覆っていた手を離し顔を向けた。

「雫わかりやすいなぁ」

「ち、ちが、」

「くふっ、かわいいねー雫は」

 可笑しそうに笑う倖子ちゃんには私の考えていたことなんてお見通しなんだろう。

 私がこんな下心のある人間だったということ、倖子ちゃんにはバレてるんだ。
 すごく、恥ずかしい。

「大丈夫だって」

 倖子ちゃんが笑いを止めて、弾んだ声で言った。

「絶対、颯見の方が、雫にキスしたくてたまんないとか思ってるよ!」

 楽しそうに言った倖子ちゃんの言葉に、また鼓動が揺れる。

 そうなのかな。
 恥ずかしいのに、なんだか心臓が躍ってしまう。そうだったらいいな、なんて厚かましいことを考えてしまう。
 私、颯見くんとキスするの、期待してしまってる。