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 脳内を揺るがすように響いたチャイムの音で、遠くにあった意識がだんだんと自分の元へ戻ってきた。

 重い瞼をゆっくり開ける。
 視界に映ったのは、少しオレンジがかった空を切り取る教室の窓。

 あれ、どうして。

 まだ覚醒しきれない思考をゆっくり動かしながら、体を起こす。

「あ、起きた」

 耳に近い距離から柔らかな声が聞こえて、トクンと、心臓が大きく跳ねた。

 ハッと窓から視線を移すと、前の席の椅子に跨って、椅子の背の上で頬杖をつく颯見くんの姿。

「おはよ」

 クシャッと笑った颯見くんに、鼓動が揺れる。

「お、おは、おは、よう……?」

「はは、寝起き」

 笑った颯見くんに鼓動を鳴らしながら、この状況を把握しようと思考を巡らせる。

 そうだ。私、颯見くんが部活を終わるのを待っていて。颯見くんのことを考えていたら課題が手につかなくて。
 いつの間にか眠ってしまったの?

 何気なく時計に目をやると、針は七時を大きく過ぎていた。

「あ、あれ、七時、私、ごめんなさいっ」

 ガタッと立ち上がると、颯見くんはまた、ふは、と笑った。

「大丈夫」

 そう言って、よいしょ、と跨っていた椅子から足を抜いて立ち上がる。

「帰ろっか」

 ものすごく待たせてしまったはずなのに、溶かされそうなほど優しい声に、また私は心臓を高鳴らせた。
 頷いて、広げていた問題集を片付けて、鞄を持って、颯見くんと教室を出る。

 窓からオレンジ色の光が差し込む静かな廊下。

「課題、結構進んだ?」

「え、と、半分、くらい」

「そっかぁ。俺全然出来てねーしヤバイなー」

 私と颯見くんの、二つの長い影が並んでる。

 やっぱり、彼氏と彼女になっても、二人で歩くのはドキドキしてしまう。
 彼女って、何をしたらいいのかわからない。

 だけど、今日は失敗してしまったなぁ。颯見くんはもっと早く帰りたかったはずなのに、私が寝ていたせいでこんな時間になってしまって。何時間ぐらい待たせてしまったんだろうか。
 大切にしたいって思ったばかりなのに。

 颯見くんは優しいから、そんなこと気にしないとでも言うような態度で、世間話を続けている。


 オレンジに染まる帰り道。
 ミーンミーンと蝉の鳴く声が、昼間より哀愁を漂わせている。

 颯見くんのいる右半身がなんだかくすぐったくて、鼓動が煩い。

 細い道を突き当たりまで進むと、左へ行けば私の家、右へ行けば颯見くんの家へ続く道になっている。

「こんな時間でも暑いよなー」

 そんなことを言いながら、颯見くんは当たり前のように左――私の家へ向かう道を進んだ。

 ハッとして、咄嗟に立ち止まった。

「ん、どうした?」

 颯見くんが立ち止まって振り返る。

 颯見くんはいつも遠回りになるのに私を家まで送ってくれる。だけど、今日はこんな遅くまで待たせてしまったから。

「あの、今日は、私が、送りたい」

 そう言うと、颯見くんは一瞬目を見開いてから、優しく笑った。

「気にしないで。俺が送りたいだけだから」

 優しくて、甘く溶かされるような、声。
 心臓が、奥の方で揺れる。

「あ、の、でも」

「哀咲女の子なんだから、守らせて」

 優しい、優しい、颯見くんの笑顔。
 好きだなぁ、って、春風が吹く。

 オレンジ色だった空は、だんだんと光度を落として、伸びた影が少し薄くなっていた。

「あ、の、やっぱり、送りたい」

 寝ていたのを起こさず待ってくれていた。私のせいでこんな時間になってしまった。

「颯見くんのこと、大切に、したい、から」

 ぽつぽつと落とした自分の声が、妙に響いた気がした。

 自転車が、私と颯見くんの横をスーッと通り過ぎる。
 私が何を言ったかなんて知らない蝉が、ミーンミーンと、変わらず鳴いている。

 薄暗いオレンジに照らされた颯見くんの整った顔が、幻想的に映った。

「哀咲ごめん、」

 そう言って、颯見くんが私の方にゆっくり足を進めて空いた距離を縮める。

 少しだけ、その整った顔が赤く染まって見えるのは、夕陽のせいなのかもしれない。

「……かわいい」

 呟くように言った颯見くんの声。

 次の瞬間、ガバっと腕を背中に回された。颯見くんの熱い体温に抱きしめられる。

 あれ、今、かわいいって言われた気がした。
 それに、こんなに密着するのは花火合戦の日以来で、脈がおかしいぐらいに騒ぎ出す。
 何なんだろう。これは、何なんだろう。

「俺の方が、哀咲のこと大切にしたいって思ってるから」

 耳元で響いた颯見くんの吐息混じりの声が、心臓をドクンと揺らす。

「負けねーよ」

 目眩がするような、甘く優しい声が、私の胸の奥を溶かしていった。



《優しい負けず嫌い Fin》