だいぶ進んだところで、前を歩く颯見くんが立ち止まって、くるりと体を私に向けた。

 ザザーン、とさっきより強く波が砂浜を打ち付ける。

 周りに人がいなくなったせいで、まるで二人だけの世界になったような、そんな錯覚に陥る。

 なんだか、すごく、緊張する。

「俺、哀咲が好きだよ」

 暗闇に静かに響いた颯見くんの声が、鼓膜を揺さぶった。

 胸の奥の方でドクドクと鼓動が音を立てている。

 勘違い、じゃない。
 今、しっかり聞こえた。
 颯見くんが、私のことを好きって言った。

「あ、の、」

 吐き出した声が、震える。

 だけど、この夢みたいな現実が溶けて無くなってしまわないうちに、言いたい。

「私、も、颯見くんが、好き」

 浅く息を吸うと、夏の夜の生暖かな空気が肺に流れ込んできた。

 少し、足が震える。

 体がフワフワして、現実なのか、夢なのか、わからなくなりそう。

「真内のことは、もう好きじゃないの?」

 少しだけ低めの声で、そんなことを聞かれて、え、と声が漏れた。

 颯見くんの言葉を頭の中で、反復する。

 もう好きじゃない、って何だろう。颯見くんも、私が真内くんを好きだと思っていたのかな。

 颯見くんにそう誤解されるのは、クラスの人に誤解されるよりも、もっとすごく嫌で、内臓の奥が騒ついた。

「違う!」

 出した声は思ったよりも空に響いて、自分でも肩を揺らしてしまった。

 灯りがないせいで、颯見くんの表情はよく見えないけど、たぶん目を見開いて私を見てる気がする。

 まだざわざわと急かすように騒ぐお腹の奥を、ふー、と息を吐いて、落ち着かせた。

「私は、ずっと颯見くんが好きで、真内くんは、それを応援してくれていて、何も、特別な感情を持ったことは、ないよ」

 言い切ると、肩が少しだけ降りて、今まで肩に力が入っていたことに気づいた。

 だけどまだ浅い呼吸は、不安を渦巻かせている。

 表情の見えない颯見くんの顔が、少しだけ下を向いた。

「そっか」

 呟くように、納得するように、短く響いた柔らかい声。
 その一声だけで、お腹の奥でうごめいていたものが、消えて無くなった。

「俺も、一つ、誤解解かせて」

 そう言って、颯見くんが顔を上げる。

「鈴葉のこと、家族以上の気持ちで好きになったことないよ」

 颯見くんの言葉に、ピクッと体が跳ねた。

 私がずっと胸の奥に持っていた黒いものを見透かされたような気がして、急に恥ずかしさと罪悪感がのしかかる。

 恥ずかしい。すごく恥ずかしい。たとえ事実は颯見くんが鈴葉ちゃんを好きでなかったのだとしても、私が、大切な友達である鈴葉ちゃんに、嫌な感情を向けていたことは、心苦しくて恥ずかしい。

 颯見くんを真っ直ぐに見れなくなって、視線を砂浜に落とした。

「哀咲」

 颯見くんの声が聞こえて、ザ、ザ、と足音が近付いた。
 砂を踏む音が近づくたびに、鼓動が揺れる。

 颯見くんの足が、私のすぐ前で止まった。

「今は、俺のこと見て」

 降ってきた声が、少しだけ切なく掠れて聞こえて、そっと顔を上げた。
 思ったよりも颯見くんとの距離が近くて、心臓が跳ねる。

「顔、よく見たい」

 そう言った颯見くんの指が、スッと頬に触れて、心臓が急ピッチで暴れ出した。
 
 触れられた顔に、熱が集まってくる。息を吐き出せなくなって、苦しくなってくる。超高速で脈を打つ心臓が、体から飛び出てしまいそう。

「怖がらないで」

 颯見くんが、優しく言って、そっと頬から指を離した。

 まだドクドクと耳の奥で脈が暴れてる。

 怖いんじゃない。ただ、緊張するだけ。

「颯見くんの、こと、怖いと思ったこと、ないよ」

 伝えたくて必死に絞り出した声は、打ち付ける鼓動のせいで少し震えて聞こえた。

 だけど、颯見くんは、「そっか」と優しく笑う。

 波音がまた、ザザーン、と砂浜を打つ。

 耳の奥で響く鼓動の音が、少し心地いい。

 目の前に立つ颯見くんが、「あのさ、」と言って片手を自分の髪に当てた。
 この距離だとよく見える颯見くんの表情が、それによって半分隠れる。

 下唇を軽く噛んで、逸らしていた視線が私に向けられた後、髪に当てていた手が離れた。

「哀咲、」

 繋がった視線で名前を呼ばれて、緊張が走る。

 気のせいかもしれないけど、颯見くんも少し緊張しているような、そんな気がした。

 脈が、ずっと全身を打ち付けて、鳴り止まない。

「俺と、付き合ってください」

 颯見くんの形のいい口から出た言葉が、真っ直ぐ耳に届いて体の奥で溶けた。

 少し火照った体を、生暖かな風がかすめていく。胸の奥でじんじんと何かが音を立てている。

 これは本当に現実なのかな。夢なんじゃないのかな。
 まだ信じられない心の中で、颯見くんの言葉を必死に反芻する。

 目の前にいる颯見くんの吐息が、近い。目眩がしそう。

 もう、夢でも現実でも、どっちでもいいと思った。

「よろしく、お願い、します」

 答えると、一瞬の沈黙。

「……やべー」

 呟くような声が落ちて来たと思ったら、グイッと腕を引かれて、トス、と顔が颯見くんの体に当たった。そのまま腕を離れた手が、背中に回る。

 熱い温度が、脈を伝って流れてくる。激しく打ち付ける鼓動の音に支配された聴覚。呼吸をしていいのかも、わからなくなる。

 もう、この激しい鼓動の音が、私のものなのか、颯見くんのものなのか、わからない。

「やっとだ……」

 切なく掠れた声が耳元で響いた。
 それが、たまらなく心臓をくすぐって。少し震える指で颯見くんのシャツを掴んだ。