第15章 切ない保健室
気がつけばあの日から、もう一週間が経っていた。
私から事情を聞いた倖子ちゃんは、鈴葉ちゃんにはより一層、さらに颯見くんにまで敵意を向けるようになってしまった。
だけど、まだ私の心は颯見くんを好きなままで、声を聞けば胸が高鳴るし、授業中は隣を意識してしまう。
それを押し込めて、自分で知らないふりをして、一日が終わる。
あれから颯見くんも、たぶん私とは気まずくて、目も合わなくなった。
最近、夜は、あの日のことを思い出して、考えたくないのに胸が苦しくて、ちゃんと眠れない。
「最近身だしなみの乱れが目立つぞー。ほら山崎、第二ボタンは閉めろ」
終わりのホームルームの時間。
太吉先生の声が、働かない思考の裏を流れていく。
「えーなんだよ今まで見逃してくれてたじゃん」
「いや、俺は断じて見逃してなんかいない。教頭に言われたから注意し始めたわけじゃないぞ」
「あー……教頭に言われたんすね」
どわっと笑い声が広がる中で、颯見くんも楽しそうに笑っているのを視界の端で捉えた。
心臓がぎゅっと潰されたみたいに苦しくなる。
「なんでもいいけど第二ボタン閉めろ」
腕を組む太吉先生の姿が、少し歪んで見えた。
今はだめ。学校では溢れてこないで。家に帰ってから、また思う存分泣けばいいから。
目に溜まって揺れる水を、引っ込ませようと瞬きする。
ぎゅうっと抉られるような心臓の痛みを、押さえ込んで、気づかないふりをして、涙を引かせることに集中する。
「……おーい嵐。お前、保健委員だったよな」
颯見くんを呼ぶ太吉先生の声に、ピクリと鼓動が反応してしまった。
「え、そうだけど」
颯見くんの声。
涙を引かせることに集中しなきゃいけないのに、鼓動が跳ねたのと同時にチクリと痛みが走る。
「哀咲が具合悪そうだから保健室連れてけ」
先生の言葉に、思わず、はっと息を吐いた。
え、と隣からも、戸惑う声が聞こえる。
「せんせー!」
前の席の倖子ちゃんが、パシッと手を挙げた。
「おー、なんだ寺泉」
「あたしが保健室に連れて行きます」
粛然と言い放った倖子ちゃんに、先生はすぐ「いーや、」と続ける。
「寺泉は教室に残れ。嵐が哀咲を連れて行け」
「でも先生、」
「担任命令だ!」
倖子ちゃんの反論を遮って言い切った太吉先生に、倖子ちゃんの延びた手が力なく降りる。
倖子ちゃんがそう言ってくれたのは、私のことを心配してくれたから。
こうやって倖子ちゃんにまで気を遣わせてしまっていることが、本当に申し訳ない。
「嵐、早く連れてけ」
それなのに私は、具合悪くないから大丈夫です、なんて言う勇気がない。
ううん、違う。私は颯見くんと二人で保健室に行けることを、心のどこかで喜んでるんだ。
二人になったら、私と居たくない颯見くんの態度を、改めて認識させられてしまうことになるのに。
それはすごく怖くて不安なのに。倖子ちゃんにも心配させてしまっているのに。太吉先生にだって、具合悪いと思われて気を遣わせてしまっているのに。
それなのに、胸の奥の奥で、鼓動が躍っている。
ガタ、と隣の席から椅子の動く音が聞こえて、颯見くんの気配が私の真横に近づいた。
「行こ、か」
少し気まずさを含んだ声色が落ちてくる。
具合が悪いなんていう自覚はないのに、私も頷いて立ち上がる。
「雫っ」
倖子ちゃんが心配そうに振り返って立ち上がった。
「寺泉、座れ」
太吉先生に抑圧されて、倖子ちゃんはキッと太吉先生を睨んで席につく。
椅子に座ったまま振り返った倖子ちゃんが、「後で行くね」と眉を下げて小さく手を振った。
本当に、心配かけてしまってる。
罪悪感でいっぱいになりながら頷いて、教室を出た。
廊下には、終わりのホームルームを終えただろうクラスの人がパラパラと立っている。
その中をただ二人、無言で歩く。
私と颯見くんの間に空いた、人一人分ほどの距離が、颯見くんの気持ちを物語っていた。
不本意に私を保健室まで連れて行かないといけなくなった颯見くんは、きっと今とても困っている。
自分のことを好いていて振った女子と、二人で歩かないといけないなんて、すごく、気を遣うだろうな。
私がもう颯見くんのことを好きじゃなくなれば、颯見くんもこんな嫌な思いをしなくて済むのかな。
颯見くんを好きなことを辞めれば、颯見くんに迷惑をかけなくて済むのかな。
ぐっと喉の奥に何かがつっかえて、目頭が熱くなりかけたのを、慌てて引っ込めた。
こんなところで泣いてしまったら、もっと颯見くんに迷惑をかけてしまう。
歪みかけた視界をパチパチと瞬きして誤魔化す。
長い廊下はホームルームが終わってどんどん人で賑わっていく。
楽しそうな笑い声。ふざけ合う会話。元気に駆ける靴音。
高確率で誰かが颯見くんに声をかけたりして、私だけ別世界にいるような気持ちになる。
颯見くんとは同じ距離を保ったまま、目的の保健室へと続く階段を降りた。
前、颯見くんと二人で来た時とは全然違う空気。
ただ一人浮かれていたあの時の自分が恥ずかしくなって、蘇りそうになった記憶を振り落とした。
気がつけばあの日から、もう一週間が経っていた。
私から事情を聞いた倖子ちゃんは、鈴葉ちゃんにはより一層、さらに颯見くんにまで敵意を向けるようになってしまった。
だけど、まだ私の心は颯見くんを好きなままで、声を聞けば胸が高鳴るし、授業中は隣を意識してしまう。
それを押し込めて、自分で知らないふりをして、一日が終わる。
あれから颯見くんも、たぶん私とは気まずくて、目も合わなくなった。
最近、夜は、あの日のことを思い出して、考えたくないのに胸が苦しくて、ちゃんと眠れない。
「最近身だしなみの乱れが目立つぞー。ほら山崎、第二ボタンは閉めろ」
終わりのホームルームの時間。
太吉先生の声が、働かない思考の裏を流れていく。
「えーなんだよ今まで見逃してくれてたじゃん」
「いや、俺は断じて見逃してなんかいない。教頭に言われたから注意し始めたわけじゃないぞ」
「あー……教頭に言われたんすね」
どわっと笑い声が広がる中で、颯見くんも楽しそうに笑っているのを視界の端で捉えた。
心臓がぎゅっと潰されたみたいに苦しくなる。
「なんでもいいけど第二ボタン閉めろ」
腕を組む太吉先生の姿が、少し歪んで見えた。
今はだめ。学校では溢れてこないで。家に帰ってから、また思う存分泣けばいいから。
目に溜まって揺れる水を、引っ込ませようと瞬きする。
ぎゅうっと抉られるような心臓の痛みを、押さえ込んで、気づかないふりをして、涙を引かせることに集中する。
「……おーい嵐。お前、保健委員だったよな」
颯見くんを呼ぶ太吉先生の声に、ピクリと鼓動が反応してしまった。
「え、そうだけど」
颯見くんの声。
涙を引かせることに集中しなきゃいけないのに、鼓動が跳ねたのと同時にチクリと痛みが走る。
「哀咲が具合悪そうだから保健室連れてけ」
先生の言葉に、思わず、はっと息を吐いた。
え、と隣からも、戸惑う声が聞こえる。
「せんせー!」
前の席の倖子ちゃんが、パシッと手を挙げた。
「おー、なんだ寺泉」
「あたしが保健室に連れて行きます」
粛然と言い放った倖子ちゃんに、先生はすぐ「いーや、」と続ける。
「寺泉は教室に残れ。嵐が哀咲を連れて行け」
「でも先生、」
「担任命令だ!」
倖子ちゃんの反論を遮って言い切った太吉先生に、倖子ちゃんの延びた手が力なく降りる。
倖子ちゃんがそう言ってくれたのは、私のことを心配してくれたから。
こうやって倖子ちゃんにまで気を遣わせてしまっていることが、本当に申し訳ない。
「嵐、早く連れてけ」
それなのに私は、具合悪くないから大丈夫です、なんて言う勇気がない。
ううん、違う。私は颯見くんと二人で保健室に行けることを、心のどこかで喜んでるんだ。
二人になったら、私と居たくない颯見くんの態度を、改めて認識させられてしまうことになるのに。
それはすごく怖くて不安なのに。倖子ちゃんにも心配させてしまっているのに。太吉先生にだって、具合悪いと思われて気を遣わせてしまっているのに。
それなのに、胸の奥の奥で、鼓動が躍っている。
ガタ、と隣の席から椅子の動く音が聞こえて、颯見くんの気配が私の真横に近づいた。
「行こ、か」
少し気まずさを含んだ声色が落ちてくる。
具合が悪いなんていう自覚はないのに、私も頷いて立ち上がる。
「雫っ」
倖子ちゃんが心配そうに振り返って立ち上がった。
「寺泉、座れ」
太吉先生に抑圧されて、倖子ちゃんはキッと太吉先生を睨んで席につく。
椅子に座ったまま振り返った倖子ちゃんが、「後で行くね」と眉を下げて小さく手を振った。
本当に、心配かけてしまってる。
罪悪感でいっぱいになりながら頷いて、教室を出た。
廊下には、終わりのホームルームを終えただろうクラスの人がパラパラと立っている。
その中をただ二人、無言で歩く。
私と颯見くんの間に空いた、人一人分ほどの距離が、颯見くんの気持ちを物語っていた。
不本意に私を保健室まで連れて行かないといけなくなった颯見くんは、きっと今とても困っている。
自分のことを好いていて振った女子と、二人で歩かないといけないなんて、すごく、気を遣うだろうな。
私がもう颯見くんのことを好きじゃなくなれば、颯見くんもこんな嫌な思いをしなくて済むのかな。
颯見くんを好きなことを辞めれば、颯見くんに迷惑をかけなくて済むのかな。
ぐっと喉の奥に何かがつっかえて、目頭が熱くなりかけたのを、慌てて引っ込めた。
こんなところで泣いてしまったら、もっと颯見くんに迷惑をかけてしまう。
歪みかけた視界をパチパチと瞬きして誤魔化す。
長い廊下はホームルームが終わってどんどん人で賑わっていく。
楽しそうな笑い声。ふざけ合う会話。元気に駆ける靴音。
高確率で誰かが颯見くんに声をかけたりして、私だけ別世界にいるような気持ちになる。
颯見くんとは同じ距離を保ったまま、目的の保健室へと続く階段を降りた。
前、颯見くんと二人で来た時とは全然違う空気。
ただ一人浮かれていたあの時の自分が恥ずかしくなって、蘇りそうになった記憶を振り落とした。
