◆◇◆◇

「じゃ、補習頑張ってね」

「うん、ありがとう」

 放課後。部活に向かう倖子ちゃんに手を振って、机の上に数学の教科書を出した。

 あの後、倖子ちゃんに、あのプリントが解けないなんてと驚かれて、何か抜けている公式があるんじゃないかと教科書を広げる。

「じゃあな颯見。補習頑張れよー」
 
「他のサッカー部員と顧問にも伝えとくから」

「サンキュー! 終わったらすぐ行く!」

 隣に座る颯見くんの会話を耳にしながら、目で教科書を読んでいく。

 終礼直後の騒がしい教室が、だんだんと鎮まりを見せて、いつの間にか賑やかな声は廊下からしか聞こえなくなった。

 広い教室の端の席に、私と颯見くんの二人だけ。
 なんだか胸が疼いて落ち着かない。

 ガラガラ、と黒板側のドアが開いて、よ、と太吉先生が紙の束を持ちながら入ってきた。
 ポン、とその束が教壇の上に置かれる。

「お前らクジ運が悪かったな」

 そう言った先生が、ニヤリと笑った。

「クジ運? ってどういうことだよ」

「ああ、一枚だけな、超難問のプリント作った」

「は? え?」

「まぁそういうわけだから、あれは解けなくても仕方ない。けど補習は約束だからな」

 ふふん、と満足気な太吉先生の言葉に、隣で颯見くんが項垂れる。

「なんだよそれ。俺だけならまだしも哀咲まで巻き込んで……」

 教師と生徒とは思えないほど親し気な会話が繋がっていく。
 そういえば太吉先生は朝羽くんのお兄さんだから、きっと颯見くんとも昔からの仲なんだな、と納得した。

「ま、とりあえずこのプリントやっとけ」

 ポン、と十枚ほど束になったプリントが、それぞれの机に落とされた。

「え、こんなに?」
 
「当たり前だ。補習だからな」

「えー」

「俺は職員室にいるから。終わったら持ってこいよ」

 そう告げた太吉先生が、チラッと私に視線を送った。

「せいぜい青春楽しめよー」

 ニヤリと笑って教室を出ていく。
 あ。やっぱり太吉先生は、私の気持ちを見抜いている気がする。そう思うと急に恥ずかしくなった。

「補習のどこが青春なんだよ……」

 颯見くんの小さいため息が聞こえて、私の青春のせいで補習に巻き込まれた颯見くんにすごく申し訳なく思った。

「あの、ごめん、ね」

 置かれたプリントに目を向けながら、謝る。

「え! 哀咲は何も悪くないじゃん」

 鼓動の高鳴りがおさまらない。

「俺こそ、ごめんな」

「ううん。ほんとに、ごめんなさい」

 数学の授業の後にもしたような気がする会話。

「俺は全然いいから」

 颯見くんにちらりと視線を向けると、バチっと目が合った。
 その瞬間に、大きく心臓が跳ねる。

「プリント、」

 颯見くんが、自分の髪にクシャッと片手を当てて、視線を落とした。

「やろっか」

「うん」

 トクン、トクン、と教室に自分の鼓動が響き渡る。
 それを聞かれないように、わざと筆箱の中で音を立てながらシャーペンを取り出した。

 プリントに目をやると、授業の時とは打って変わって見覚えのある図形が並んでいた。
 隣に意識を持っていかれそうになるのを、なんとか阻止しながら、黙々とシャーペンを走らせた。


 ◆◇◆◇


 あれから、どれくらい時間が過ぎたかわからない。
 シャーペンの先が机に当たる音と、時々消しゴムが紙の上を滑る音、時計が針を動かす音だけが、教室内を支配している。
 
 プリントはちょうど五枚目に差し掛かった。
 問題に集中しなきゃいけないのに、ふと、隣にいる颯見くんの気配が、胸の中を揺さぶる。

 颯見くんは、どれくらい進んだんだろう。
 そんな思考がよぎって、問題に集中していない自分に慌てて喝を入れた。

 五枚目の問題は、因数分解。得意な分野だから、解き始めるとスラスラ解けていく。
 一問目が終わり、二問目。二問目が終わり、三問目。三問目が終わり、四問目。四問目が終わり、最後の五問目に差しかかろうとしていた時。
 隣から聞こえていたシャーペンの音が止まった。

 シン、と静寂が漂う。

 なんとなくこの静寂を壊すのがはばかられて、私も五問目を解き始めるのをやめた。

 カチ、カチ、と。時計が時を刻む。

 
「哀咲、」

 静寂の空気のまま、颯見くんの声が教室に響いた。

「解き方、教えてほしい」

 トクン、トクン、と。
 空気が動かない代わりに、私の鼓動が波打っていく。

「う、うん」

 答えて左隣に目を向けると、颯見くんはシャーペンをポトっと置いて、机の縁を持ち上げた。
 ガタガタ、と音を立てて、机の距離が近付く。
 颯見くんの机の端が、コン、と私の机に小さく当たって、くっついた。

 颯見くんと私の距離が近くなる。

「この問題なんだけど、」

 そう言って、プリントと一緒に颯見くんの頭が寄る。

「う、うん」

 少しでも動いたら触れてしまえる距離。
 心臓が激しく鳴り響いて、顔が熱い。
 
 それを悟られたくなくて、プリントの問題に顔を近づけた。

「あ、」

 耳のすぐ近くから、颯見くんの漏れた声が聞こえた。

 飛び跳ねた心臓に気付かれないように、ゆっくり振り向く。

「長いね」

 ドクン、ドクン、と心音が聴覚を支配する。

 その言葉の意味を理解しないまま。視界がやっと颯見くんを捉えた。

 左頬に頬杖をついて、形の良い二重の目が、伏し目がちに見つめている先。
 颯見くんの右手に、私の長い三つ編みが、優しくすくわれて、しなり、とたゆんでいた。

 私の髪に颯見くんが触れている。
 そう理解した瞬間、内臓に電流のような何かが駆け抜けた。

 呼吸の仕方がわからなくなって、動けなくなった身体とは反対に、ドクン、ドクン、と存在を主張する心臓。
 髪に感覚器官が宿ったかのように、触れられたそこから熱がまわって、身体が、顔が、目が、熱い。

 私の視線に気付いてか、颯見くんの優しい視線が、ゆっくりと髪を伝って上ってきた。

「おさげ」

 視線が、静かに繋がる。
 動悸がより激しくなった。

 そんな私とは裏腹に、動かない空気が、あまりにも静かで。息が、上手く吐けない。
 心臓が、痛いくらい動いていて、胸が苦しい。

「あ、の、」

 やっと絞り出した声が、震えた。

 その瞬間に、颯見くんがパッと視線をそらして三つ編みから手を放した。
 止まっていた空気が、私と颯見くんの間をすり抜けていった。

 肺に溜まっていた息が、少しずつ漏れていく。

 
「ごめん、俺」

 颯見くんが、頬杖をついていた左手で、髪をわしゃっとかきあげて、そのまま机に突っ伏した。

「怖かったよな」

 弱々しく響いた声に、ハッとして慌てて首を振る。

 声が震えたせいで、勘違いさせてしまったんだ。
 
 だけど、私がいくら首を振っても、机に突っ伏した颯見くんには見えるはずがなくて。

「……当たった髪が、すげー柔らかかったから」

 小さく呟くような声が、くぐもって響いた。


 髪、当たったんだ。
 トクン、と鼓動が速度を速める。

 ―――自分から何か頑張ってみたら?
 こんな時に、倖子ちゃんの言葉を思い出して、私はズルいのかもしれない。

 「ごめん」と机に伏せたまま謝る颯見くんに、ゆっくり手を延ばした。
 
 机にへばりついた颯見くんの腕。それをたどって、腕まくりしたシャツに指先を当てた。

 颯見くんの体温で少しだけ温もったシャツ。指先にその温度が伝わってくる。

 速いテンポを刻む脈。
 指先が、震える。

 ゆっくりと、指を曲げて、シャツをつまんだ。