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 翌日。この席での最初の授業は、数学だった。

「――ってとこまで説明したところで、せっかく席替えしたんだからその席をちゃんと活用しないとなー!」

 授業も残り十五分ほどになって、太吉先生がニヤリと笑って紙袋から紙の束を取り出した。

「え、なにそれ」
「悪い気しかしねー」

 飛び交う不安の声をもろともせず、太吉先生は続ける。

「今から隣のやつとペアになって、一枚のプリントを解いてもらう。チャイムが鳴る前に全問解けなかったら居残り補習だぞ」

 先生の唐突な発言に、教室がどよめく。

「えーー」
「マジかよー」
「嫌だー」

 口々に不満の声が上がるなか、太吉先生が少し楽しそうにプリントを配っていく。

「安心しろ、授業聞いてたらすぐ解ける。ほら隣と席くっつけろー」

 パサッと。私と颯見くんの机を跨ぐようにしてプリントが置かれた。
 その隙間を埋めるように、ガタガタと颯見くんの机が動く。慌てて私も机を左に寄せて、ぴったりと机が合わさった。
 
 左半身に意識が集中する。
 颯見くんの気配が、すごく近い。

「配られたやつから解いてっていいぞー」

 そう言われて、俯いたまま置かれたプリントに目を向けた。

 描かれた図形と問題文を目で追っていると、スッと颯見くんの気配が近付く。
 一枚のプリントを二人で見ているから、そうなるのは必然的だけれど、顔の距離が近くて胸が騒ぎ出す。

「待って、これ超ムズイじゃん」

 颯見くんの声が、耳のすぐ近くから聞こえてきて、胸をくすぐった。

「ほ、ほんとだね」

 本当は書かれていることなんて全然頭に入ってきていない。
 自分だけこんなに意識して。駄目だ。授業中なのに。
 高鳴る心臓にシカトを決め込んで、問題文を必死に黙読する。
 
 それは図形の角度を求める問題で、複雑に重なった図形は今まで見たこともないような重なり方をしていた。

「ここ、ちょっと書いていい?」

「あ、うん」

 スッと颯見くんの腕が近づく。
 また揺れた鼓動に罪悪感を感じて、少し距離を取った。

「ここがこうで、こうなって、」

 図形に数字や記号が書き込まれていく。
 シャーペンを持つ手が、思ったより角ばっていて、男の子の手なんだなぁと目を奪われる。
 そこから繋がる腕は、しなやかな筋肉がついていて、太くもなく細くもなく、だけど私のストンと伸びただけの腕とは全く違う、男の子の腕。
 腕まくりがよく似合うなぁ、なんて考えて、ハッと思考回路を修正した。

「ここまではわかるんだけどなぁ、」

 そう言って颯見くんがプリントを少し私の方に寄せた。

「哀咲、わかる?」

 颯見くんからの視線に、脈を刻む心音を聞きながら、さっきまでの思考を打ち消すようにプリントを睨み付けた。
 
 大人っぽくて、綺麗な字。その先を、頭の中で様々な公式に当てはめながら考えてみる。

 だけど、どう頑張っても、続きを導くものがない。
 あれ、本当にこれは、難しい。

「先生、全問解けたー!」
「超簡単だったねー」
「俺らもできた!」

 周りの人たちが、次々とプリントを提出していく。
 みんな、簡単に解けたんだ。

「先生できましたー」
「楽勝じゃん!」

 どんどんと終わった人が増えていき、賑やかになっていく教室。

 マジか、と颯見くんが呟く。
 早く解かないと放課後補習になってしまう。そんなの颯見くんに申し訳ない。だけど、みんなには簡単に解けている問題が、どうしても解けない。

「ん? あとは嵐と哀咲ペアだけか」

 太吉先生が呟くように言ったのを耳にして、焦りが加速した。プリントを眺めるけれど、一向に続きがわからない。

「あと一分だぞー」

 先生が間延びした声で、厳しすぎるタイムリミットを告げた。
 今直面しているこの問題の他にも、まだ解かないといけない問題がある。もう、絶対に解き終わらない。

「哀咲、」

 颯見くんがプリントに目を向けたまま、小さく呼んだ。

「大丈夫。頑張ろ」

 プリントの問題から目を離さない、真剣な横顔。

「うん」

 トクン、トクン、と胸が脈を刻む。
 私が焦っているのを気にかけてくれたんだ。

 その思いを無駄にしたくなくて、プリントの問題をまた頭の中で公式と当てはめていく。

 これも出来ない。あれも違う。えーっと、えーっと。
 頭の中をぐるぐる回転させているうちに、虚しくチャイムが鳴り響いた。

「はい、嵐と哀咲は放課後補習な」

 太吉先生が満足気に言って教壇に立つ。

 起立、礼、ありがとうございました、と一連の流れが済んで椅子に座ると、隣から、あー、と唸る声が飛んできた。
 視線を向けると、颯見くんとパチリと目が合う。

「けっこー悔しいな」

 髪をクシャッと掻き分けて苦く笑った颯見くんに、また、胸の奥が疼いた。

「そうだね」

 残り一分しかなくても粘って解こうとしていたり、解けなくて悔しい表情を見せたり。颯見くんって、結構負けず嫌いなんだな。
 そんな一面を見られて、少し嬉しくなった。

「ごめんな、放課後」

 不意に謝られて、緩みかけていた頬に手を当て首を振る。

「ううん、私こそ、ごめんなさい」

「いや、俺は全然、」

「おい、颯見ー!」

 クラスの男子が颯見くんの名前を呼んで、二人だけの会話が終了した。

「あんな簡単な問題解けなかったのかよー」

「いやあれ超むずいじゃん!」

「え? 基礎問だったじゃん」

 男子に囲まれていく颯見くん。
 邪魔かもしれないと思って、そっと席を立ち、倖子ちゃんの席の前に回った。