次の日、私は熱が下がらず学校を休んだ。

 今頃学校はお昼休みかなとか、五時間目かなとか、そんなことを考えながら。一人、部屋のベッドの上で時間が過ぎていく。
 朝はまだ重く感じていた身体も、夜になると、随分楽になって怠さがなくなっていた。
 
 汗を吸ったパジャマが身体に纏わり付いて気持ち悪い。 シャワーを浴びようかな。そう思ってベッドから起き上がると、冷たい空気が身体に当たった。

 一瞬で冷たくなったパジャマ。早くそれを脱ぎたくて、浴槽へ向かいパジャマを脱ぐ。
 お風呂に入りシャワーを浴びて、新しいパジャマに着替えると、お母さんが「雫」と顔を覗かせた。

「寺泉さんから、電話よ」

 ニコッと笑って電話の子機を渡される。
 それを耳に当てると、電話越しに生活音が流れてきた。

「も、もしもし」

「あ、雫! 身体大丈夫?」

 倖子ちゃんの声が機械を通して少し違ったように聞こえてくる。

「うん。もう楽になったよ」

「そっかー、よかった!」

 心配してかけてくれたんだなぁ、と自然に頬が緩んだ。

「あの、ありがとう」

「もう雫がいないから学校つまんなかったよー」

 たわいもない話。
 電話の奥から、倖子ちゃんの家の生活音がよく聞こえてくる。

「あ、今日さ、」

 少しの間があいて、倖子ちゃんが続けた。

「颯見が雫のこと、超心配してたよ」

 耳に当てた受話器から突然飛び込んできた名前に、心臓が大きく飛び跳ねた。

「え、えっと、え?」

 口からは、なんの意味も持たない声だけしか出てこない。

 だけど、颯見くんが私を心配してくれていた、という事実が、思った以上に嬉しくて、口角が勝手に引っ張られる。

「え、あ、え、と、」

 にやける頬を手で押さえて、ただ声を吐いた。飛び跳ねた心臓の余韻がまだおさまらない。

「く、ふ、」

 電話の向こうから、押し殺したような笑い声がかすかに聞こえてきた。

「雫かわいー」

「え、え?」

 可愛いなんて言われ慣れていなくて、なんて返したらいいのかわからない。

 意味のない声すらも出さなくなった私に、「ねー雫」と少し低いトーンの声がかかった。その後少しだけ、沈黙が流れる。
 電話越しでもわかるぐらい、倖子ちゃんが何かを言おうとしてためらっている。

「倖子、ちゃん?」

 呼ぶと、んーと倖子ちゃんが唸って、はぁ、と息を吐いた後に、カサッと体勢を変える音が聞こえた。

「雫は、さ、」

 少しの間があく。
 何を言われるのか、不安ともどかしさで、トントンと鼓動が主張する。
 
 数秒の間の後。
  
「颯見と誰かが付き合ったら、どうする?」

 静かに受話器から響いた声が、脳を酷くぐらつかせた。

 誰か、と人物を濁したのは、倖子ちゃんの優しさだとわかる。そうなる相手は一人しかいない。
 今までどうして考えなかったんだろう。きっと、いつかは、その時が来る。

 颯見くんと鈴葉ちゃんが並んで、手を繋いで。その姿を、見る日が、いつかは来るんだ――。

 じん、と肺が痛くなった。
 お腹の奥底に、禍々しい黒が侵食してくる。

“いやだ”

 訴えるように、心が叫んだ。

“鈴葉ちゃんに渡したくない”

 直後にハッとして、その言葉を心の中から追い払う。

 今の、なんだろう。すごく、厚かましくて嫌な言葉が浮かんだ。
 
 だけど、妙に腑に落ちてしまう。
 今まで感じていたモヤモヤした感情。言い表せなかったものの正体。それが、今やっと、言葉として形が見えた。

 鈴葉ちゃんも、颯見くんにおんぶされたことあるのかな。甘えてって言われたこと、あるのかな。
 
 嫌だな。他の人にはしないで。
 私だけ、が、いい。

 追い払ったはずの嫌な感情が、隙間から漏れ出てくる。
 
 自分勝手でワガママだ。
 私って、こんなに醜いんだ。


「ねぇ、雫」

 連鎖する思考を遮った倖子ちゃんの声。

「雫は、嫉妬とか独占欲が、悪いことだって思ってる?」

 へ、と息を漏らすと、クスッと倖子ちゃんが笑った。

「あたしはそうは思わないよ」

 受話器の向こう側にいる倖子ちゃんが、ガサっと動く。

「誰かにとられたくないと思うなら、自分から何か頑張ってみるのもいいんじゃない?」

 柔らかい声に、ドクンと心臓が揺れた。

「え……」

 吐く息が止まって。緊張しているわけでもないのに、鼓動が鳴る。

「その方が、ダメでも諦めつくかもじゃん?」

 倖子ちゃんの言葉が、スッと胸に届く。
 
「あ、風邪なのにこんな話してごめん。じゃ、そろそろ切るね」

 そう言われて、慌てて口を開く。
 
「あの、ありがとう……」

 言うと、「お大事に」と返ってきて電話が切れた。