授業中で誰もいない、静かな廊下。

「ずっと無理してたんだろ?」

 歩きながら、颯見くんが私の顔を覗き込んだ。

 思ったよりもそれが至近距離で、ドキッとする。でもそれは一瞬で、颯見くんはすぐに前を向き直した。

 ゆっくり、ゆっくり、私に合わせて進んでくれる颯見くん。静かな廊下に、私の鼓動と二人の足音が鳴り響く。

 颯見くんにもこの鼓動が聞こえてしまいそう。風邪のせいなのか、この状況のせいなのか、頭がフワフワして、おかしくなってしまう。
 変に思われたくなくて、平常心を保とうと体に力を入れた。

「哀咲、」

 ピタっと颯見くんの歩みが止まる。

「え、」

 肩に置いた手をそっと掴まれて、優しく肩から降ろされる。

「あ、」

 漏れた声と共に不安が渦巻いていく。

 肩、重かったかな。力入れちゃったから痛かったかな。それとも、私の気持ちに気付いて――。

「ご、ごめ」

「後ろきて」

 謝罪の言葉を言い切る前に、そう言った颯見くんがその場にしゃがんだ。
 しゃがんだまま手を後ろに延ばす颯見くん。その格好はまるで、おんぶするときのような。

「歩くのしんどいよな。気付かなくてごめん」

「あ、あの、」

「ほら、おぶるから」

 振り返って、また、優しく笑う。
 それに反応して、心臓が騒ぎ立てた。

「わ、私、重いから、」

 颯見くんに重いなんて思われたくない。汗もかいてるから、気持ち悪いなんてもっと思われたくない。それに、こんなにドキドキしていること、背中越しに伝わってしまいそうで。

「俺、男だよ」

 また心臓がドクンと波打つ。

「ほら、おいで」

 あまりにもその声が優しくて、たくさん渦巻いていたはずの思考が、もう働かない。
 ゆっくりと後ろに回って、そっと身体を颯見くんに預けた。颯見くんの両腕が、私の両脚に回り込む。颯見くんが立ち上がって、地面についていた私の足が宙に浮いた。

「軽すぎるぐらいだ」

 はは、と笑って前に進み出す颯見くん。

 足を支えてくれる腕。密着した広い背中。颯見くんの爽やかな香り。
 距離が近すぎて、おかしくなりそう。

 私だけがこんな意識して。私だけ、何考えてるんだろう。

「哀咲、やっぱ身体熱いな」

 ふと言われて、ハッと身体を背中から離した。

「ご、ごめんなさ、」

「あ、危ないからちゃんともたれて」

 颯見くんが立ち止まる。

「で、も、」

 不快に思われたくない。

「それじゃあ危なくて歩けない」

「わ、私、やっぱり、歩くよ」

 鼓動はうるさいままで、身体も熱くて、汗もかいていて。少しでも嫌に思われたくない。

「それは却下」

「でも、あ、」

 颯見くんがポンっと私の体を跳ねさせたせいで、再び体が背中に密着する。


「悪いけど、降ろしたくない」

 トクン、と。
 胸が高鳴って、その言葉を都合よく解釈してしまいそうになる。

 違う。違う違う。
 そうじゃなくて、それは颯見くんの優しさで。本心で言ってるわけじゃない。
 私に気を遣わせないように、そう言ってくれてるんだ。

「あ、ありがとうっ」

 都合よく期待しそうになるのを食い止めるために、お礼の言葉を絞り出した。

 ゆっくり歩き出す颯見くんの振動が、私の身体を揺らす。
 少し前まで寒く刺さって辛かった窓からの風が、いつの間にか少し和らいでいた。
 ただ、鼓動の音だけが、私の中で騒いでいる。

「哀咲、」

 名前を呼ばれて、うるさいままの心臓が、小さく一回動きを変えた。

「もっと、俺に甘えてよ」

 トクン、トクン。
 心臓の音が、もう颯見くんにも聞こえてるかもしれない。

 もう、颯見くんのどんな言葉を聞いても、都合よく解釈してしまいそうになるのだと思った。

 風邪のせい。それか、こんなに密着しているせい。いや違う、私が颯見くんを好きなせい。
 厚意で言ってくれていることなのに。
 そう思いながらも、言葉の真意に期待しかけるのを、また止める、の繰り返し。

 鼓動が、もうずっと鳴り止まない。

「……て、言われたって困るよな」

 独り言のように呟いた颯見くんに、ハッとして首を振った。
 私が何も言わないから、また気を遣わせてしまった。

「優しく、してくれて、ありがとう」

 言いながら、騒ぐ心臓が口から出てしまいそう。

「……うん」

 小さく聴こえた颯見くんの返事にすら、鼓動が反応する。

 密着した腹部が熱い。颯見くんの息遣いがすぐ近くから聞こえてくるし、脚に回された腕の感触が、さらに鼓動を掻き立てる。

「ちょっと揺れるよ」

 そう言って、颯見くんが、私を乗せたまま階段をトントンとテンポよく下っていく。
 
 保健室は、階段を下りたすぐの正面にある。
 もうすぐ、この時間が終わる。
 
 揺れる視界を見つめながら、ふと、もっとこうしていたい、と不純な感情が湧いた。
 
 すぐにそれを否定する。
 私はきっと、傲慢になってるんだ。颯見くんにとったら、重くて大変だし、授業も受けたかったはず。ここまで背負って来てくれただけでも、すごく迷惑をかけてるのに。

 階段を下まで下りきって、ピタッと颯見くんの足が止まった。
 目の前に、保健室の扉。着いて、しまった。この時間が、終わってしまった。

 降りなきゃ、と足を下に延ばした。
 それを感じただろう颯見くんの腕が、そっと脚から放れていく。緩く屈んでくれて、トン、と足が廊下に着いた。

「あの、ありがとう」

 密着していた颯見くんの背中と私のお腹の間に冷たい空気が流れていく。

「うん」

 背を向けたまま颯見くんが応えて、ガラッと保健室の扉を開けた。

「せんせー、哀咲さんが高熱です」

「あら、保健委員の颯見くんね。それは大変。早く入って」

 聞き慣れた、ハイトーンな声。
 中に入ると、ふくよかな保健室の先生がニコッと笑って手招きした。

「颯見くん、ありがとう、授業戻っていいわよ。はい、哀咲さんはこれで熱計って」

 渡された体温計を受け取って、シャツの一番上のボタンを外す。

「あぁっ、俺、じゃあこれで失礼します」

 颯見くんの少し慌てた声に振り向くと、背中を向けたまま「お大事にな」と言って出ていった。
 ガラガラ、と後ろ手に扉が閉められる。

「珍しいわね、貧血じゃなくて風邪で来るなんて。ちょっと脈計らせてね」

 体温計を左脇に挟んでから、右腕を差し出した。

「まぁ、大変。だいぶ脈が速いわ。これはまだ上がるわね」

 結局、計った体温はなかなかの高熱で、家族に迎えに来てもらい、早退することになった。