第12章 風邪ひき


 中庭の桜の木を彩っていた桃色が散り、鮮やかな緑が覆い尽くす。
 まだ肌寒さのあった四月は終わり、五月になっていた。

「あと二週間で中間テストかぁ」

 はあ、と倖子ちゃんがため息をついて、食べ終わったお弁当を重ねた。

「てか中雅鈴葉、ほんとに真内に乗り換えたのかな、しょっちゅう昼休み話しかけにくるじゃん」

「ほんとだね」

 窓から風が吹き抜けて、体に刺さる。
 なんだか今日の風は、体に厳しい。

「……ねぇ雫、全然弁当進んでないよ」

 言われて、ひとつの卵焼きを、もう何十分もお箸に掴んだままであることに気が付いた。

「具合悪いんじゃないの?」

 心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて首を横に振った。

「ほんとに? なんか顔色も良くないけど」

 倖子ちゃんが言った直後に予鈴のチャイムが鳴った。

「保健室行く?」

「ううん、大丈夫だよ」

 掴んでいた卵焼きをお弁当に戻して、お箸を片付ける。
 うーん、と倖子ちゃんが唸って、ちらっと私の顔を見た後、息を吐いた。

「……じゃああたし席に戻るね」

 心配そうな声を残して、倖子ちゃんが席を立つ。手を振ると、倖子ちゃんは納得のいかないような顔で、手を振り返した。

 少し朝から喉が痛いけど、保健室に行くほどのことじゃない。テストも近いし、授業は受けておきたいし。
 ほとんど残ったお弁当を片付けていく。

「具合、悪いのか?」

 いつの間にか隣の席に戻ってきていた真内くんに、ふと声をかけられた。

 倖子ちゃんまでならず、真内くんにまで、心配をかけてしまった。申し訳なくて首を横に振ると、真内くんは何も言わずに机に教科書を出していく。

 授業の始まりのチャイムが鳴って、先生が入ってくる。
 いつものように、午後の授業が始まった。

 ◆◇◆◇

 英語、生物、と、午後の授業がいつもよりゆっくり進んでいく。
 やっと、数学。今日の最後の授業。

「この方程式とこの方程式が――」

 太吉先生が説明しながら、黒板に数字や記号を書いていく。
 いつもなら理解しようと動く頭が、今日はただ時間が過ぎることだけを必死に願っていた。

 窓からスースーと刺さる風に、身体が小さく震える。

「はい、ここ大事なところだからよーく写しとけよー」

 開けたノートの上で、震えながらシャーペンを握りしめる。
 力の入らない手を必死に動かしながら、ゆっくりと数字を書いていく。

 このまま、この重い頭を机の上に預けてしまいたい。そうしたら少し楽だろうなぁ。
 そんなことを考えた瞬間、緩んだ手からポトッとシャーペンがすり抜けた。そのままシャーペンが机の端の方へ転がっていく。
 慌ててそれを取ろうとすると、手が滑って、カランと床に落ちてしまった。

 拾わなきゃ。そう思って、身をかがめるために椅子を引く。

「あんたはいいから」

 隣からの低い声で、動かそうとしていた重い身体が静止した。
 代わりに真内くんが転げ落ちたシャーペンを拾って、ポンっと机の上に置いてくれた。
 
 あ、と自然に声が漏れた。
 真内くんに目を向けると、ぱちっと目があった。
 拾ってくれたお礼、言わなきゃ。

「あ、の、」

「あんたさ、」

 スゥッと真内くんの手がのびてくる。

「熱、」

 お礼を言おうとした口から息が漏れると同時に、額に冷たい温度が張り付いた。
 私の額に手を当てた真内くんが、「やっぱり」と呟く。


 その瞬間。ガタンっと。
 勢いよく椅子を引く音が、教室じゅうに響いた。

 手から冷たい温度が離れる。
 視線を向けると、立ち上がったその人――颯見くんと視線が繋がった。

 ドクン、と鼓動が鳴る。

「おい、嵐。どうしたー?」

 太吉先生の声で、繋がっていた視線が解かれる。

「先生、哀咲さんが体調悪そうなんだけど」

 そう答えた颯見くんの視線が、もう一度私に向く。
 
 あ、気付いてくれてた。心配してくれた。
 どうしよう。心臓が、どうしようもなく騒がしい。

「ん、確かに哀咲、だいぶ顔赤いな」

 太吉先生にそう言われて、はっと顔を俯けた。

「哀咲さん熱あるんじゃない?」
「大丈夫?」
「保健室行った方がいいよ」

 クラスのみんなが、口々に私を心配してくれる。

「俺、保健室連れて行きます」

 颯見くんがそう言って、席から歩いて近付いてくるのがわかった。
 
 そっと顔を上げると、ふんわりと笑みを返された。
 その瞬間に、身体の温度が一気に上昇する。

「ふーん、なるほどねぇ。んじゃ、頼んだぞ嵐。哀咲も辛いなら今度から早めに言うんだぞ」

 太吉先生に何かを悟られたような気がして、慌てて颯見くんから視線を外して頷いた。

「哀咲、立てる?」
 
「あ、う、うん」

 視線を外したまま、ゆっくり立ち上がる。

「歩ける? 肩持って」

「だ、大丈夫」

「いいから、ほら」

 そっと手首を掴まれて、そのまま肩の上に持っていかれる。
 掴まれた手首と、肩に触れている手の平が、じんじんと疼くように熱い。

 心配してくれているだけなのに、私はこんなに胸を高鳴らせて。こんな不純な気持ちで、颯見くんの肩に触れてしまっている。

「体重かけていいから」

 ゆっくり歩き出す颯見くんに合わせて、私も前に進む。
 
 颯見くんの肩に触れている手が、震えてしまう。心臓が暴れて、頭がクラクラする。

 
「お大事になー」

 太吉先生の声とクラスの視線を受けながら教室を出ると、風が冷たく体に刺さった。