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 二年生になって二日目。昨日から新しくなったクラスの教室へ向かう。 
 科学研究部の人達と一緒に登校するのは校門までで、靴箱で履き替えた後には、いつも姿が見えなくなっている。
 
 教室の前まで来て、ここが二年九組の教室であることを確かめてから、扉に手をかけた。
 ガラガラっと開けると、クラスメイトの視線が私に注がれる。

「あ! 哀咲さん、おはよー!」
「昨日楽しかったねー!」
「おはよー哀咲さん!」

 思わず、息が漏れた。
 
 一年のときには、なかった光景。
 ぐっと手に力を込める。

「お、おは、よう」

 絞り出した挨拶に、また、反応が返ってくる。

「おはよー!」
「哀咲さんおはよー!」

 こんな、普通なら当たり前のことかもしれないことが、私には初めてのことで、すごく嬉しい。
 昨日、倖子ちゃんや颯見くんのおかげで、ちゃんと言えてよかった。
 
 お礼、したいな。
 ふと思い立って、カバンを机に置き、教室を出た。

 向かったのは、校舎横にある自動販売機。
 去年ムカデ競争のメンバーで初めてクレープ屋に行った時の教訓から、いつも千円札と小銭を小さい財布に入れて制服のポケットに持ち歩くようになった。

 目当ての自動販売機の前に立って、ポケットから財布をだし、機械にお金を入れる。ディスプレイされた紙パック達の中から、最初に『春風の紅茶』を見つけて、ボタンを押した。カコンと音を立てて、それが落ちてくる。
 
 一度だけあげた、春風の紅茶。一度、渡せなかった、春風の紅茶。それをそっと取り出すと、少し手が震えた。
 お礼をするだけ。たったそれだけなのに、渡す時のことを考えて、胸が高揚する。
 
 倖子ちゃんには何をあげようかな。
 もう一度お金を入れて、考えながら、並んだ紙パックを上から順番に見ていくと、ふと、ひとつのパッケージに目が止まった。

“大人のブラック”

 見た瞬間に、真内くんの顔が思い浮かぶ。
 そういえば、真内くんにもまだ言葉でしかお礼を伝えられていなかった。
 
 少し考えて、『大人のブラック』を買うことにする。
 ボタンを押して落ちてきたそれを手に取り、やっと倖子ちゃんのためにお金を入れた。

 倖子ちゃんは、どんなものが好きだったかな。
 記憶を辿ると、一緒に遊んだ時も、昨日のカラオケでも、炭酸の入った飲み物を飲んでいたのを思い出す。

 ディスプレイを眺めていると、『炭酸レモン』という字が目に入った。
 これにしよう。どうか、嫌いじゃありませんように。
 願いながら、『炭酸レモン』のボタンを押した。

 購入した三つの紙パックを腕に抱えて、教室のある二階への階段を上る。
 
 最後の一段まで上ると、教室へと続く廊下の前方に、真内くんの後ろ姿が見えた。
 自分が持っている紙パックに目を落として、もう一度真内くんの後ろ姿を確認する。

 今、渡そう。
 そう思って、小走りで真内くんに近づいた。

 その足音に反応したのか、真内くんが立ち止まって振り返る。この機を逃すまいと、慌てて駆け寄って、真内くんの目の前に立つ。
 腕に抱えた紙パックのなかから『大人のブラック』を選んで、手に取り抜き取ろうとした。

 だけどその瞬間、スルッと空を掴むような感触がして、私の手からそれが抜け落ちる。
 
 パシッ。と。
 それは一瞬の出来事。抜け落ちた『大人のブラック』を、真内くんの右手が掴み取った。

 その一連の流れに追いつけない私が唖然としている間に、ポンっと『大人のブラック』を私の腕の中に返されてしまった。

「あ、」

 思わず声が漏れる。
 その声を聞き取ったらしい真内くんが、紙パックから私の顔に視線を移した。

「……どうした?」

 低く、落ち着いた声。
 
 早く、お礼を言って渡さなきゃ。
 そう思いながらも、私が答えるのを急かそうともしない空気に、少し安心している。

 これは真内くんへのお礼です、って、そう言って渡せばいい。
 いつもよりも鼓動がおとなしい。
 ゆっくりと深呼吸をして、『大人のブラック』をもう一度差し出した。

「これ、は、真内くん、に、」

 鼓動はいつもより落ち着いていたのに、実際に声に出すと、ぎこちない。

「お、お礼、です」

 言い終わると、真内くんはゆっくりと『大人のブラック』に視線を向けた。

「……大人のブラック……」

 小さく低く呟いて、それを受け取る。

 今になって、もしかして嫌いだったかな、と不安になった。真内くんの顔を伺うと、フッとその表情が緩んだ気がした。

「ありがとな」

 そう言って、ストローを挿し、口に咥えて、教室の方へ歩いて行く。

 よかった、飲んでくれた。嫌いじゃなかったんだ。
 安心してそれを見送って、まだ腕に残る二つの紙パックに目をやった。
 あとは、颯見くんと、倖子ちゃん。

「哀咲!」

 廊下に、私の名前が響いた。
 その声に、トクン、と心臓が反応する。

 顔を向けると、五メートルほど先に想像通りの人物。部活動の大きな鞄と学校指定の鞄をそれぞれ両肩にかけて歩いてくる。

 トクン、トクン、と脈が早くなる。

 颯見くんが、私の目の前まで来て、歩みを止めた。

「さっきの、」

 言いかけた颯見くんの視線が、私の腕に抱えた紙パックに移る。
 その視線に、自分の目的を思い出して、『春風の紅茶』を手に取った。

「あの、これ、昨日のお礼」

 差し出す手が、少し震える。
 颯見くんと接するのは、他の人と話すみたいに、苦手だとか、難しいとか、そんな風には思わないのに。

 真内くんの時とは全然違う、脈の動き。

「俺なんにもしてないじゃん」

 スッと出てきた颯見くんの手が『春風の紅茶』を掴む、と思ったら。

「手、震えてる」

 そのままそれを素通りして、優しく手首を掴まれた。

 掴まれた右手首の温度に、全神経が集中する。まるで、そこが心臓になったみたいに、掴まれた手首が脈を打つ。

「哀咲、」

 少しだけいつもより吐息の多い声に、心臓がいっそう激しく動き出した。掴まれた右手首を中心に、熱が全身を回っていく。

 もう、どうしたらいいのかわからない。

「あんまり……」

 言いかけて、颯見くんの手が離れた。右手首の温度がなくなって、少し冷えた空気が皮膚に触れる。
 手に持ったままの紙パックの存在を思い出して、緩みかけた手の力を入れなおした。

「いや、ごめん」

 颯見くんが視線をそらして、その紙パックを私の手から抜き取った。

 あ、と漏れた声に反応して、颯見くんの視線がもう一度私に向いた。
 トクン、とまた大きく鼓動が鳴る。

「これ、ありがとな」

 そう小さく言って、クシャッと笑った。
 春の風が吹いて、胸の奥が疼く。

「颯見ーっ!」

 教室の方から颯見くんを呼ぶ男子の声が聞こえて、颯見くんは「じゃまた!」と言って男子の声に応えながら教室の方へと歩いていった。

 離れていく背中を見ながら、トクン、トクン、と、まだ心臓が音を立てている。
 掴まれていた右手首が、熱を持って疼く。

 颯見くんにとったら、こんなこと何でもないことなのに。私だけが、意識してるんだって、わかってる。

 ーーもっと哀咲の近くにいきたい
 昨日言われた言葉も。さっき掴まれた手首も。言いかけた言葉の続きも。
 都合よく考えてしまいそうになる思考を必死に否定して、抑え込む。

 颯見くんが好きなのは、鈴葉ちゃんなんだから。
 
 まだ手に残っている『炭酸レモン』に目をやって、倖子ちゃんに渡すために教室へ向かった。