一時間目の英語の授業が終わり、各教室から溢れ出た人達で廊下が賑わっていく。

 その廊下から一番離れたこの席で、楽しそうに立ち話したり、笑い合いながら歩いていく人達を眺めた。

 もし、その中に颯見くんがいて、彼がここへやってきたとしたら、私はこのチョコレートを彼に渡さなければいけない。
 その時が、今、もう、迫っているかもしれない。
 そう思うと、期待と不安とが混ざり合って、鼓動が速く、強くなっていく。

 どうやって渡したらいいんだったかな。

 颯見くんが来て朝羽くんの隣へ座ったら。
 まず、朝羽くんにチョコレートを渡して、颯見くんにもチョコレートを渡す。「義理チョコです」って言って渡す。そう、それだけのこと。
 たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに緊張しているんだろう。

 大丈夫。何も難しいことはない。大丈夫。
 言い聞かせて、激しくなってくる鼓動を鎮めようとするけれど、胸の音は耳に大きく響いてくるばかり。
 
 たまらなくなって席を立ち、廊下に出た。

 鳴り続ける動悸に急かされて、どこに向かうともわからないまま廊下をさまよい歩く。

 だけど浮き立つ気持ちは全く鎮まらなくて、ふと目に入った女子トイレに入ろうと、扉に手をかけた。

「チョコ受けとってくれなかった……」
 
 扉を押す直前に、女子トイレの中から聞こえてきた、か細い涙声。
 中に入ってはいけない気がして、扉に手をかけたまま立ち尽くす。

「そっか……」
 
 さっきとは違う女子の声。
 そのすぐ後に、うん、とさっきの涙声が続いた。

「告白したら、好きな人がいるからごめんって……受け取れないって……言われた」

「そうなんだ……」

「嵐くんが好きな人って鈴葉ちゃんだよね……」

「うん……たぶん……」

 不意に聞こえた“嵐くん”に、ビクリと体が反応する。

 この子は颯見くんにチョコを渡そうとしたんだ。
 そうわかったと同時に、ドクドクと脈が速くなっていく。

「嵐くん、鈴葉ちゃんからのチョコ以外は受け取らないんだろうな……」

 か細い声が、酷く耳を貫いた。
 
 ドクンドクンと心臓が嫌な音を立てる。
 扉にかけていた手を離し、ゆっくりとまた廊下を歩き出した。

 ドクドクとうねる脈が気持ち悪くて、渡り廊下に出た。
 冷えた空気が肺に入って、身体が芯の底から冷える。

 冷たい風に誘われるように、あてもなくフラフラとさまよい歩く。

 何を期待していたんだろう。
 チョコは、渡せば受け取って貰えると、どこかでそう思い込んでた。颯見くんには迷惑だってわかってたのに。

「嵐!」

 ふと聞き慣れた可愛らしい声が、耳に入る。
 ハッとして辺りを見回すと、いつの間にか一年二組の教室の前まで来ていた。
 一年二組は颯見くんや鈴葉ちゃんのいるクラス。

「はい、嵐。今年もトリュフ作ったよ」

「お、やった! サンキューな!」

 見たくなかった。
 そんな言葉が、心の中に湧き出てくる。

 だけどそれとは矛盾して、視界は二人を捉えて離さない。

「だけど嵐、毎年トリュフで飽きないの?」
 
「一年に一回だからいいんだよ。それに鈴葉のトリュフすげー美味いし」

 くしゃっと笑う、その顔。
 それは、鈴葉ちゃんに向けられたもの。

 好きな人からしかチョコを受け取らない颯見くんが、鈴葉ちゃんからチョコを受け取っている。
 その事実は、紛れもなく、そういうことで。

 もう、あのトリュフは、渡せない。

 颯見くんに迷惑をかけちゃ駄目だ。颯見くんと鈴葉ちゃんの邪魔をしちゃ、駄目だ。

「雫、」

 後ろから声がして、振り返った瞬間、腕がのびてきて、ぎゅっと、倖子ちゃんの体温に包まれた。

「雫」

 耳元で小さく、倖子ちゃんの声が揺れる。

「ごめん。教室で、颯見にチョコ渡そうとした女子達の会話聞こえて……」

 普段教室から出ない私が、教室から出ていたんだから、チョコを渡しに行ったと思うのは当然で。
 きっと教室で聞いた会話は、私がトイレで聞いた会話の内容と同じ。

 心配して来てくれたんだ。そして今も、また心配させてしまってる。

 私は小さく首を横に振って、目から溢れそうになるものを押し込めるために、すぅっと息を吸った。

「チョコは、」

 声が震える。

「渡せ、ない」

 その言葉に、倖子ちゃんの腕の力が強くなった。
 呼吸の音だけが耳に響いて、私を抱きしめたまま、何も言わない。

 ずっと私の味方をしてくれていたのに、こんなことを言って、怒らせてしまったのかもしれない。いや、そうじゃなくて、悲しませてしまってるかな。

「教室、戻ろっか」

 倖子ちゃんの体温がゆっくりと離れて、そっと私の手をとって歩き出した。

「ごめん、なさい」

 私は倖子ちゃんに、どこまで心配をかけたら済むんだろう。
 
 だけど倖子ちゃんは、首を横に振って前を歩いていった。