四方を校舎で囲まれた中庭は、冬のせいなのか、昼休みなのに人がぽつぽつとしかいない。
 今日は、特に空気が冷たいせいかな。

 そんななかを、ただ無言で前を歩く朝羽くんに、ついていく。
 
 中庭の中央にある大きな桜の木が、肌寒そうに枝を延ばしていて、なんだか心臓が冷たくなった。

 中庭の端にある木製のベンチの前で、朝羽くんの足が止まる。

「ここで、いい?」

 朝羽くんがそう言いながら、ベンチに薄らとかかった霜をハンカチで拭いていく。

 頷くと、朝羽くんは霜が払われたベンチに腰を下ろして、その隣に座るよう促した。
 ベンチにそっと腰をおろすと、制服のスカート越しにひんやりと冷たい温度が伝わってくる。

「えっとさ、」

 歯切れの悪い声が耳に届く。
 何の話をされるのかは、言われなくてもわかってた。

「練習試合の日に話したこと、なんだけど、」

 ピクッと内臓が跳ねる。

「急にごめんね」

 前を見つめたまま話す朝羽くんの声が、少し震えていた。
 冷たい風が耳に当たる。

「哀咲さんになら、共感してもらえると思ったんだ」

 何かに耐えるように前を見る朝羽くんの横顔が、泣きそうに歪む。

「……ね、僕たち、報われないのに、辛いだけなのに、どうしてまだ好きなんだろうね」

 薄く掠れた声が、冬の風にさらわれて消えた。 
 その声に、喉の奥が詰まって、一瞬呼吸が止まる。苦しくなって息を吐き出すと、鼻の奥に何か込み上げてきて、胸が苦しくなった。

 冬の冷たい空気が、肺に入ってきて、ジンジンと痛い。体温が奪われていく。

「もう……抜け出したい……」

 朝羽くんの掠れた声がだんだん音を無くして消えていった。
 その横顔が、悲痛に歪んでいて、胸が痛い。

 胸が詰まって、苦しくなって、ふっと息を吐き出す。鼻の奥がツーンと痛い。心臓がジュクっと何かに潰されて苦しい。

 痛い。痛い。
 息が震える。

「哀咲、さん……?」
 
 何かを感じたのか、こちらにゆっくり向いた朝羽くん。その目が、だんだん大きく見開かれていく。

「哀咲さん、泣いて……」

 その言葉で、自分の頬に水が伝っていく感覚に気づいた。右手をそっと頬に当ててみると、生温かい水の感覚。

 指先の冷たい温度が、頬に、じん、と伝わって、身体の温度が一気に冷えた気がした。

「どうしよ、ごめん、」
 
 慌てた様子で謝る朝羽くんの顔が涙でぼやけて映る。
 必死に首を横に振るけど、どんどん涙で視界が歪んでいく。

「哀咲さんごめん、ほんとに、ごめん」

 朝羽くんのせいじゃない。朝羽くんの方が泣きたいはずなのに。次々と溢れ出て止まらない。
 首を横に振りながら、それを必死に手で拭い続ける。

「ごめん、泣かすつもりは」

「カズっ!!」

 弱々しい朝羽くんの声を打ち消す呼び声が、中庭に響き渡った。

 ハッと驚いて拭っていた手を離し、声の聞こえた方向に目を向けた。
 見えたのは、二階の渡り廊下から身を乗り出す颯見くん。
 目が合って、ドクッと心臓が揺れる。

 颯見くんは、私を見るなり目を大きく見開いて、次の瞬間、渡り廊下の手すりをひょいっと乗り越えた。
 後ろにいた鈴葉ちゃんが慌てて手すりに駆け寄ったのが見えた。
 
 思わず息を呑んだけど、次の瞬間には軽々と中庭に着地した。
 それほど高さのない渡り廊下で、高校生の男子なら軽々乗り越えられてしまう。

「何、してんだよ」

 いつもの颯見くんからは想像もつかない。聞いたこともない低い声。
 空気が一瞬にしてピリピリと張り詰めた。

 この状況に、思考が追いつかない。
 明らかに怒っている颯見くん。
 取り残された渡り廊下で不安げに瞳を揺らす鈴葉ちゃん。

 さっきまであんなに溢れて止められなかった涙は、いつの間にか引っ込んでしまっていて、頬が風に当たって渇いていく。
 
 颯見くんが、ぐいっと朝羽くんの腕を引っ張った。
 鋭い風が、颯見くんの髪を揺らす。

「なんで哀咲泣かせてんだよ……!」

 小さく響いた声にならない声に、ハッと思考が動き出した。

「……ごめん」

 謝った朝羽くんに、慌てる。

 違う。違う。これは、勘違いさせてしまってる。

 強張った身体を勢いよく立ち上がらせて、ぐっとスカートの裾を掴む手に力を込めた。

「そ、颯見、くん!」

 絞り出した声が、中庭に響く。
 瞬間、朝羽くんに向いていた颯見くんの視線が、こちらにハッと飛んできた。

「あ……哀咲……」

 さっきまでとは違って、力のない声。
 同時に、朝羽くんの腕をつかんでいた手が離れて、少しホッとする。

 でも、早く誤解を解かないと。泣いていたのは朝羽くんのせいじゃないって、ちゃんと伝えないと。
 そう思って、深く息を吸い込む。

「ごめん、」

 だけど、それを吐き出すより早く、颯見くんの声が耳に響く。

「ちょっと来て」

 そう言って、自然と掴まれた、左手首。
 ドクン、と心臓が音を立てて、脈が騒ぎ出す。

 それに気づかれないように、意味もなく息をこらした。
 颯見くんに手を引かれる。

「……嵐、」
 
 声をかけた朝羽くんの横を通り過ぎ、何も言わないままどんどん進む。

 振り向くと、朝羽くんは何か言いたげに口を開いていて、その奥で、鈴葉ちゃんが呆然と渡り廊下に立っていた。