少しの時間だけ、その生温かい空気に身を委ねて、思考を放棄した。

「ま、人生いろいろあるよな」

「お前、何様」

「ちょっ重太っ英麿っ空気読んで空気!」

 後ろを歩いている吉澄さん達が平常通りの会話を始める。それに少し救われて、ふふ、と思わず笑った。

「哀咲!」

 突然。
 聞き慣れた声が聞こえて、ドクン、と心臓が跳ねた。

「待って哀咲!」

 さっきより鮮明に聞こえた声。思わず立ち止まり、振り返る。
 見えたのは、下り坂を駆け降りてくる、颯見くんの姿。

 さっきまで、あんなにジュクジュクと潰されていた胸に、春の風が吹く。

「なんでこのタイミングで……」

 倖子ちゃんの小さな独り言が、耳に届く。

 トクトクと疼くような胸の鼓動。

 目の前まで来て立ち止まった颯見くんが、荒い息を整えながら膝に手を当てて、まっすぐ私に視線を上げた。

「よかった、会えた!」

 さっきまで、あんなに押しつぶされていたのに。まるで、期待してるみたいに、胸が高揚してる。

「寺泉、少しの間、哀咲貸して」

 不意の言葉。

 ほら、また。

「……なんで?」

 倖子ちゃんが、不機嫌な声で呟いた。

「来てくれたのに、一度も話せてないから、」

 颯見くんは、くしゃっと、片手を、そのふんわりした黒髪に当てた。いつもの、癖。整った顔が半分隠れる。

「哀咲と、話したい」

 どくん、と心臓が揺れた。
 何も考えずに放っておいたら、浅はかにも期待してしまいそうで、必死に自分を戒める。
 颯見くんは、鈴葉ちゃんのことが、好きなんだよ。

「ふーん。で、中雅鈴葉は?」

「鈴葉は、友達と先に帰ったよ」

 倖子ちゃんの問いに対する、颯見くんの答えを聞いて、ほらやっぱり、と、さっきまで跳ね上がっていた鼓動におもりがかかった。

 ここまで駆けつけてきてくれたのは、鈴葉ちゃんがいなかったからできたことでもあるんだって。
 鈴葉ちゃんがいれば、絶対、鈴葉ちゃんと一緒にいたかったはずだから。

「あ、そーなんだ。それなら、一緒に帰りなよ。私ら先に帰るし」

 私の思いとは反対に、倖子ちゃんは、不機嫌な顔からスッとご機嫌な表情になって、ポンと私の肩を押した。

 がんばれ、って言われてる気がする。だけど。本当は私にそんな資格なんて無い。

「じゃ雫、また明日学校でね。ほら、あんたらも帰るよ」
 
「え! 私たちは、哀咲さんの護衛が」

「何言ってんのよ、そんなの颯見がやってくれるでしょ」

「え、でも」

「ほら、さっさと行く!!」

「でも化学物質で哀咲さんの身に異常があったら」

「颯見がいるから大丈夫だってば、いいから行くよ!」

「え、あ、ちょ」

 倖子ちゃんと吉澄さんたちは、少しおかしなやりとりを繰り広げながら、歩いていく。
 その後ろ姿を見送って、次第にそれが小さくなり、ついに跡形もなく見えなくなるまで離れて行ってしまった。

 ついに、私と颯見くんの二人きり、取り残された、空間。

「哀咲、」

 静けさのなかで耳に届いた颯見くんの声。少しだけ、緊張する。

「歩こ、か」

 そう言って踏み出した颯見くんの一歩に合わせて、同じ歩幅の分、片足を前に出した。

「今日、来てくれてありがとな」

 隣に颯見くんがいることが、なんだか落ち着かなくて、顔を俯けたまま小さく頷く。

「今日さ、」

 颯見くんのいる方の、身体の右半分が、なんだかざわつく。歩き方も、呼吸のしかたも、わからなくなってくる。

「休憩のとき、カズにあげたんだよな? 春風の紅茶」

 どくん、と、鼓動が大きくうねった。

 どうして、それを知っているんだろう。もしかして、あの場のどこかに颯見くんがいたとしたら。朝羽くんとの会話を聞かれていたのだとしたら。
 そう思った瞬間に、得体の知れない汗が、手に滲んでくる。

 私が颯見くんを好きなことも、颯見くんと鈴葉ちゃんが両想いだと告げられたことも。
 もし、聞かれていたなら、これから私は、何を告げられるんだろう。

「なんかさ、」

 颯見くんの口から出てくる言葉を、止めたい。まだ、何も言わないで。

 そう願う私の横で、颯見くんが息を吐いた。

「あの紅茶、俺だけだと思ってたのにな」

 え、と思わず声が漏れそうになった。

「なんて、な」

 颯見くんから放たれた言葉は、あまりにも予想外で、脳が一時停止してしまった。

 少しして、やっと働き出した思考回路で、その言葉の意味を追いかけていく。
 それでも、まだ理解できない。どういう、意味なんだろう。

「けど、」

 まだその意味に追いついてないのに、次の言葉が紡がれる。

「哀咲が、どんなふうにカズに渡したのか、すげー気になる」

 はは、と笑った颯見くんを見て、ドクドクと嫌な音をたてていた鼓動がおさまった。

 そっか。朝羽くんと二人でいたところに、居合わせたわけじゃなかったんだ。

「カズはいいやつだよ。ほんと」

 颯見くんが、くしゃっと笑う。

「優しいし、面倒見もいいし、真面目だし」

 だけど、だんだんと颯見くんの表情が、少しだけ、寂しげに見えた。

「でも、カズは鈴葉のことが……」

 そこまで言って、急に立ち止まった。

 私もそれに合わせて立ち止まる。ふっと詰まった息が漏れる。

 颯見くんの言いたいことが、わかってしまった。颯見くんの気持ちが、わかってしまった。

「いや、ごめん、なんでもない」

 そう言って、何事も無いように笑顔を見せて、颯見くんがもう一度歩き出す。
 
 ちくちくと、小さな針を刺されたみたいに、胸が痛い。
 
 颯見くんは、朝羽くんが鈴葉ちゃんを好きなこと、知ってるんだ。そうしたら、いつも颯見くんは、どんな思いでいるんだろう。
 颯見くんのことが好きな私は、なんて声を掛けたらいいのか、わからない。

 右半身にざわつきを感じながら、静かな住宅地を進んでいく。
 静かな、静かな、帰り道。
 
 結局、家まで送ると颯見くんは言ってくれたけれど、なんだかおこがましくて、丁重に断った。
 それぞれの方向へ別れて、一人、路地を歩いていると、やっぱりもう少し一緒にいたかった、なんて厚かましい思いが湧いてきた。

 もう、こんなにまで、颯見くんの思いを目の当たりにしているのに。
 颯見くんが、鈴葉ちゃんを好きだという、思い。

 私の思いは、自分勝手すぎる。