昼間の暖かさはすっかりどこかへと行ってしまったかのような肌寒い空気が入ってきたので、窓を閉めた。勉強を始めてから約1時間。机の上には問題集やノート、教科書などが開かれている。明日にせまっていたテストのために、制服も着替えずに急いで机の前に座った。しかし、明日提出しなければならないワークは今までちっともやっていなかったために膨大な量が残っていて、今から始めたって明日までに終わりそうになかった。さらに、それらに書かれている小さな文字を見ていると、まぶたが少しずつ下がってきてしまう。椅子から離れ床の上であお向けになると、そのまま眠ってしまった。
 あれから、どのくらいそうしていただろうか。ふと目が覚めて窓の外を見ると、向こうの空に輝く太陽は顔を隠そうとしていた。小さなため息をこぼすと、うっかりつけたまま寝てしまった眼鏡をはずして目をこすりながら、2階の部屋から階段をおりていった。
 そのまま台所に向かうと、電気をつけてから蛇口をひねり、近くにあったコップに水を注いでいっきに飲み干した。手を洗い、夕食の支度にとりかかった。
 僕は父と2人で暮らしている。毎日の食事の支度は、僕の仕事となっていた。まずは献立を考えるために冷蔵庫の中をのぞいた。たしか、数日前に祖母が家に来たときに置いていったじゃがいもやにんじんがあったはずだ。それを使って、父の好物のカレーを作ろう。そうすれば、他に何品もメニューを考える必要は無い。
 しかし、冷蔵庫を開けたときに違和感を感じた。冷蔵庫の中には、買った覚えのない大量の葉物野菜が入っていた。さらに、その違和感は数分前の出来事にさかのぼる。台所に入った瞬間、スパイシーなカレー粉の匂いがした。だから今夜はカレーを作ろうと思ったのだ。その香りの源を探すべくガスコンロの方に目をやると、大きな鍋があった。鍋つかみの代わりに持っていたハンカチを使ってふたを開けてみると、カレーが既に完成していた。
 何が起こっているのか分からないまま台所を出て、家中を歩き回った。座敷には、僕の部屋にあるはずの桐のたんすがあった。さらに、紫外線によって色焼けしていたはずの畳はきれいなうす緑色をしていた。
 何かが少しずつ違う。そう気付いた時、どこからか声が聞こえた。
「遅いわねぇ、まだ帰ってこないわ。」
聞き覚えのある声だった。
「どうしたのかしら。何かあったのなら、きっと連絡してくるはずなのに……。」
心配そうにつぶやくその声は、さっき電話で話した祖母のものだった。
「おかしいなぁ。さっきの電話では、明日来るって言ってたのに。」
首を斜めに傾けながら、なぜ祖母が家にいるのかを考える。
「誰か待ってるの?」
電話の前を行ったり来たりしていた祖母の背中にそう声をかけた時、驚きのあまり思わず息をのんだ。最近会った祖母の白髪混じりだった髪は黒く、背中はしゃんと伸びていて姿勢が良かった。そのあまりの変わりように、本当にあれは祖母なのかと疑ってしまうほどだった。
 たくさんの不思議なことが同時に起こりすぎて困惑してしまっていたが、今僕がいるのは今まで生活してきた自分の家であることは確かだった。
「誰かいるの?」
 祖母の声と足音がだんだんこっちに近づいてくる。
 僕は今、ここにいてはいけない。僕は今、祖母に見つかってはいけない。その確かな理由は何一つ無かったが、直感でそう感じた。僕の声に祖母が振り向く前に、急いで座敷に戻ると障子の向こうに逃げ込んだ。
「変ね。確かに、こっちから声がしたんだけど……。」
障子の後ろに隠れて、気付かれないようにじっと息を凝らす。
 その時、玄関の扉が開く音がした。それを聞きつけた祖母は、玄関の方へと行ってしまった。安心して深く息を吐いた。それからしばらく耳をすましていたが、聞こえてくるのは祖母の声だけ。しかし、途中で何度も途切れたので誰かと会話していることが分かった。
「じゃあ私は帰るからね。何かあったら、いつでも電話しなさい。しっかり休むのよ。」
そんな祖母の言葉の後、玄関の扉が静かに閉まった。
 祖母がいなくなってから、家の中は静寂に包まれた。誰の声も聞こえない。しかし、かすかな足音がこっちに近づいていると気づいた時、僕がどうする間もなくゆっくりと障子が開いた。
「そこは寒いでしょう。遠慮せずに、こっちにいらっしゃい。」
それは物腰の柔らかい口調で、透き通るようなきれいな声だった。
「あ……。」
僕の目を見つめる彼女のきれいな瞳を見たとき、思わずそう口からこぼれた。言われるがまま、座敷に上がった。
 彼女の笑顔は、僕の知っている人によく似ていた。それは僕の母である。父から、母は僕を出産する時に亡くなってしまったと聞いていた。だから、もうここにいるはずのない母に似たその女性が母かもしれないなんて、普通に考えたらあり得ないことなのだが、写真でしか見たことのなかったその笑顔を実際に見たとき、僕は夢でもみているのだろうと思った。
「学生さんね。この近くに住んでるの?」
彼女は僕の着ている学ランを見て言った。しかし、まさかこの家に住んでいるなんて言えるはずもない。
「ええ、まあ。」
そんな適当な返事をした僕に、彼女は目を細めて笑った。
「あなたの着てる制服、少しだけ借りてもいいかしら。」
そう言って近くの引き出しから針や糸などを取り出してきた。何をするつもりなのかと疑問に思いながら、学ランを脱いだ。母は針に糸を通し、慣れた手つきでとれかけていたボタンを縫い付けていく。
「あっ、ボタン……。」
そういえば今日、学校で先生に注意されたのだ。すっかり忘れていた。
「いいのよ、気にしないで。たまたま気づいただけだから。それに私、お裁縫は得意なの。」
その言葉通り、手際が良かった。
「学校では、お友達はたくさんいるの?」
ボタンを付けながら、彼女は突然そう尋ねた。僕はあまり友達は多い方ではない。困って黙っていると、彼女はこう続けた。
「私もあの人も口下手でお友達作るのには苦労したから、きっとこの子もそうかもしれないわ。」
彼女は大きなお腹をさすった。
「だけど私は、あなたのことを大切にしてくれるお友達が1人いれば、それで良いと思う。」
彼女は僕に優しい眼差しを向けた。
「この子にも、そう言ってあげるわ。それから何より、元気に生まれてきて欲しい。そしてこの子の人生を、自分なりに一生懸命生きてほしい。これ以上のことは、何も望まないわ。」
 この言葉に、胸がいっぱいになった。自分でも頬が紅潮しているのが分かる。彼女の顔がにじんで見えた。涙がこぼれないように深呼吸して、ぎゅっと目をつぶった。そして心の中で言った。
『命懸けで僕を生んでくれてありがとう。』
 ゆっくりと目を開けると、もうそこに彼女の姿は無かった。急いで座敷を出て2階の部屋に行く。机には、開いたままの問題集やノートがあった。何も変わっていない。変わったのは、外がすっかり暗くなっていたことくらいだ。窓ガラスに映る僕の顔には、頬と目の縁に涙の跡が残っていた。