今にも人が殴られそうな状況を生で見たのは初めてだ。「何かの撮影?」と不思議がる声も聞こえてきたけれど、テレビ局のカメラもスタッフらしき人も見当たらない。これは正真正銘の揉め事だ。
胸ぐらを掴んでいる男性は私と変わらないくらいの年だが、酔っているのか呂律が回らず訳の分からない言葉を叫んでいる。タクシー運転手は年配だけれどこちらも負けず劣らず怒りで顔が赤くなっているのが夜でも分かった。

「落ち着いてください!」

警察官二人が強引に運転手と男性を引き離すと、酔った男性はフラフラと歩きタクシーの横まで行くとうずくまった。私からは男性がタクシーの車体で隠れて見えないけれど、距離が離れていても嫌な音が聞こえた。タクシーの向こうにいる人は男性を見て叫んだり、「嫌だ」と顔をしかめる人もいた。

「ほらな! この人車内でも吐いたんだよ。まだ営業があるのに汚されちゃたまんないよ!」

タクシー運転手は警察官に怒りを込めて訴えた。

「どうすんだよ……クリーニング代もらわないと困るんだよ……」

「あ!? クリーニング代だ!? ふざけんな! 払うわけねーだろ!」

酔った男性は運転手の言葉に立ち上がって再び掴みかかろうとした。

「やめなさい!」

警察官も再び二人がかりで暴れる男性の肩や腕を押さえた。
なるほど、それでケンカになったのか。まだ営業があるタクシーを汚されてしまっては運転手も困ってしまう。それなのに客は酔っ払いで話が通じない。怪我までさせられてしまいそうな勢いの乱暴さだ。
騒ぎをスマートフォンで撮影する人はいても、ドアが開いたままの汚れたタクシーの車内に視線を向ける者はいなかった。
サイレンの音がだんだん近づいてきて、一台のパトカーがロータリーの端で停まった。

「すみません、通してください!」