「帰るんでしょう」
ぎくり、とした。終電はとっくに逃している午前三時。いつものように朝が来る前に、彼女が目覚める前に静かに去っていたのだ。何も纏っていない彼女はいつもなら爆睡しているはずなのに、今夜は。いや、いつも演技していたのかもしれない。
朝になったら冷めきった布団に目が覚めて、幻と勘違いしたとついこないだも言っていたではないか。
虫の鳴く声だけが聞こえる。
「起きたの、まだ朝じゃないよ」
「朝だったらあなたはいつもいないじゃない。今夜も嘘つきになろうとしたのを、止めてあげたのよ。」
今日は泊まってくれるの
うん、今日は泊まろうかな
いつもこう言っては眠ったふりをして、こっそり抜け出す。
散らかした残骸に一瞥を向けると、指をさした。
「アレ取って」
ピンク色のブラジャーを取って来る。
「着けてよ」
彼女は剥き出しの背中を俺に向けて、長い髪をあげた。
腕の一本ずつ丁寧にブラ紐に通し、ホックを止める。
彼女は自嘲気味に笑う。
「たとえば、あなたは私がスポブラを着けても同じように眉ひとつ動かさないんでしょうね」
彼女は立ち上がって、ベッドの脇に落ちていたブラジャーとお揃いのパンツを拾って、壁にかけていた茶色のカーディガンを羽織った。
「玄関まで送るわ」
何ひとつ言い訳が思いつかなかった。
たしかに、そうかもしれないって思った。ブラジャーなんかより、自分のやり場のない衝動を押さえつけることが優先だった。
もうきっと、彼女のところには来れない。
ベッドサイドに置いている、クマの人形も、玄関に置いてある真っ赤なハイヒールも見ることはないだろう。
「慣れないことは、するもんじゃないのよ」
「ああ」
「今度こそおやすみ」
彼女は穏やかに言った。我妻のように柔らかく。
夜が明けたら、俺たちは完全に他人だ。夜が明けるまで俺たちは。