「瑠花さん、敬里は、どうしますか?
 儂は敬丞【としつぐ】の元へ行きますが……」


敬丞。


それは、記憶喪失のままの山崎さんを認識するために、
お祖父さまが仮に名付けた名前だった。

 

「瑠花……、敬丞さんとはどなたでしょうか?」


その問いに私は、「監察の山崎さんです。山崎さんがこの世界に来た時には、全ての記憶を失っていました」と
総司へと告げた。


「この世界に来たのは、僕だけではなかったんですね」


総司はそう言うと、『僕も行きます。お祖父さま』っと返事をした。
着替えを済ませて、お祖父さまが手配したタクシーに乗り込んで病院へと向かう。


初めてタクシーに乗った総司は、不思議そうにキョロキョロと瞳を輝かせる。
そんな総司を見つめながら、この『月』に辿り着くことが出来なかった、鴨ちゃんを思い出す。

鴨ちゃんがこの世界に無事に辿り着いて、こうやって初めてタクシーに乗っても、総司みたいにはしゃぐ姿は想像できない。
ただ涼しそうな顔を浮かべながら、内心ドキドキして乗ってるんだろうなーなんて思ってしまった。


車がパパの病院へと到着すると、運転手さんに運賃を支払ってお祖父様はタクシーを降りる。
私と総司もそれに続いた。


病院の玄関が開いてエントランスに踏み入れた途端に、
仕事中のパパが私たちの存在に気が付いて、白衣を翻しながら近づいてくる。


「瑠花」

「パパ、お仕事お疲れ様」

「山波さん、いつも娘がお世話になっています」

「こちらこそ、いつも瑠花さんにはいろいろと手伝って貰っています」

「敬里君、その後体調はいかがですか?」


そう言ってパパの視線は、総司へと向けられる。


総司がどんな態度をとるのかとドキドキしていたら深呼吸をした後に、
『入院中は大変お世話になりました。お陰様で順調に回復しているようです。
 闘病中に病室を訪ねてくださった先生が、瑠花さんの父上と知り今は驚いています』
っと言葉を続けた。




えっ、パパが総司の病室を訪ねていたの?
そんなこと二人とも私に話してくれなかったじゃない。

驚いてキョロキョロしている間に、
『山波さん、敬丞君は今は屋上にいますよ』っとパパが言葉を続けた。


パパが看護師さんに声をかけられて移動していくと、
私たちは屋上へと向かう。


シーツなどが干された一角、柵に手をかけてボーっと空を見上げる山崎さんがそこにいた。



「敬丞、此処に居たのか……」


お祖父さまが声をかけると、
山崎さんは「空を見ていました。病室から眺める空より、この場所の方が空が良く見えるから」。


そう言いながら山崎さんの視線は私をとらえる。


「瑠花さん来てくださったんですね」

「はいっ。学校が忙しくて、なかなかお邪魔できませんでした」

「そちらは?」


山崎さんの視線が、総司へと向けられる。


そこにある姿はまぎれもなく幕末でかけ続けた山崎丞であるのに、
総司の姿をみても何も思いださない。

突き付けられた記憶喪失と言う現実に総司はショックを隠し切れない様子だった。


言葉を失っている総司に「どうかしましたか?」と山崎さんは追い打ちをかけるように続ける。


「敬丞、そこにいるのは山波敬里。儂の孫じゃよ。
 仲良くしてやってくれ」

そう言ってお祖父さまがフォローするように言葉を紡ぐ。
その声に反応するかのように総司は今の名前を「初めまして。敬丞さん。山波敬里です」。


そう言うと敬丞さんは「宜しくお願いします」とお辞儀をした。


「敬丞、そろそろ病室に戻ろう」

お祖父さまに促されて、病室へと戻る敬丞さん。
その二人について歩く私と総司。


「瑠花、山崎君の記憶は戻るのですか?」

「それは誰にもわかりません。
 ただ今は、山崎さんがこの世界で生きていくために必要な戸籍を作るために、
 私たちは動いてる」



そう……記憶喪失の人は、自分がわからない。
自分がわからないと当然、戸籍もわからないわけで……。
そんな人たちが就籍の為に必要な手順が長い時間をかけてあるのを知った。