2010年。横浜市南区の住宅街。吹き抜けを中心とした部屋の構造が素敵という理由で、吹き抜け研究に没頭していた父が購入したアパートの一室。そこで父と二人で暮らしていた。

ランドマークタワーに登って展望台から港を眺めたり、山下公園や赤レンガ倉庫の周辺で潮風を浴びながら人間観察したりするのが好きだった。

大体、時間がある時は一人で港の近くまで遊びに行っていた。コンテナが積まれている様子、船で運ばれていく様子を見て、自分の将来を思い描いた。一人でいるのが好きだった。話なんかわざわざしなくてよいとずっと思っていた。

そんな大好きな横浜の開港記念日は、私の誕生日だ。毎年、自分の心も街も賑わい盛り上がっている。毎年自分の誕生日に港の近くで花火が打ち上げられるので、いつも花火の音と光とともに一つ決意をすることにしている。みんなに祝ってもらっているのだから(立派な思い込みだけれど)、なんか特殊なことをやらなきゃと思う。

17歳のの誕生日。この時、『…もっと人と積極的に関わってみよう。』と決意してみた。


父はお付き合いしている人がいると言い、今までで三人ほどの相手を私に紹介してきた。二人目の人までは女性だったのだけれど、三人目は男性だった。

その時初めて、「面白い性格をしているな」と、少し父のことを身近に感じた。父と一緒に過ごす時間はそんなにないので、実際のところ父のことをあまり知らない。父は、外での活動を楽しんでいるようで、家にいるのは、休日と就寝2時間前くらい。その限られた時間に、要約して私と会話をする。議題が週の初めには作られていて、その集大成の会議を休日にやる。

そんな淡々としている父だが、今回は全てが違う。その男性の恋人と同棲したいということで、いきなり父は部屋の模様替えを始め、アットホームな雰囲気を出し始めた。ハーブティーセットなるものも買い揃え、恋人の好きなジャズミュージックをかけるようになり、家でゆったり会話を楽しむようになった。

何が起こっているのが詳しいことはわからないけれど、私は変なこと、楽しいことが好きだ。自分の世界観を大きくしてくれるようで、ソワソワするのと同時にワクワクもする。ちょうどその時期は私の年頃では思春期と呼ばれる時期だったが、父のその変わりようはすごく興味深いものだった。

父によると「パートナーになるべき人が、同性としてこの世に生を受けた人だった」という話らしい。そうなんだ…。本気か…。「父は狂ってしまったのであろうか?」「性別って何なのだろう?」「恋愛ってなんなの?」「出会いってどんなものなの?」と疑問を掻き立てられる。

父が恋人と同棲を始めてから、家にいるのが好きになったらしく、父と一緒に過ごす時間が増えた。恋人との愛情表現のスキンシップも娘の前で堂々とするようになった。恋人とはオープンに会話が楽しめるらしく、会話の中で父の趣味嗜好や将来の夢などについて聞くことができ、父も一人のロマンチストな男なんだということがわかってきた。未だかつて父のそんな姿を見たことがなかった。


私が通っている高校は通信制だけれど、週2日学校に通えば通信講座は取らなくて良いという機転の効いた学校だ。父は話のツボは押さえている人で、そういう進路に進む意思決定に関しても、今まで一緒に淡々と考えてくれた。そろそろ同年代の子達は大学に行き始める準備をする頃。私のこれからの進路についても、父とも父の恋人とも何げなく話をして決めた。1年くらいバイトしてお金を貯めて、2年間ほどバックパックで旅をして、その後1年かけてやること定めると目標を設定した。

父は客観的思考が得意で、今までも淡々と一緒にブレインストーミングしてくれていたが、その恋人が間に入ってくれたことでその思考の内容に香りが出てきたというか、臨場感が出てきたというか、何にしても、家にいるのが楽しくなってきた。雰囲気に花を咲かせてくれる存在がその父の恋人だ。父は楽しそうにしている。そんな姿、今まで見たことがない。街の祝日のような雰囲気が家の中に現れるようになってきた。

学校では、どうしても成績にばらつきが出る生徒にしかなれなくて、どの学年通しても『英語5、国語4、数学2、社会2、理科2、美術5、体育3』みたいなことにしかならない。英語については高校生でTOEICのテストで780点取るのはなかなかすごいことらしく、学校の先生から相当褒められた。

高校に行っている間、飲食店のホールのバイトをした。自分で進路決定した通り、バイトしてお金を貯めて、少ない資金でも旅ができるように発展途上国を旅するつもりだ。将来を見据えた上でやるバイトではあるけれど、やはり疑問しか残らない仕事だ。

一緒に飲食店でバイトをしている16歳の男の子と非常に仲良くなった。名前はカイト。私と1歳違い。6人兄弟の長男で、一番下の妹が2歳だという。学校は中学でやめたみたい。空気みたいな子。自然にとなりにいて、一緒にふたりで過ごす時間も増えて、いつの間にか肌も会話も触れ合ってる。感覚的に会話ができ、頭脳を使う必要を感じない存在だ。

デートの開催場所はいつもだいたい決まっていた。「次のデートの時までお互い頑張ろうね」と約束し、事実を重ね、拠り所を作った。私たちは共通の疑問と意見を持っていることも知れた。「これから社会に出たらお金を一生懸命稼がなきゃいけなくなるんだ…。なんのためだろうね?窮屈な世の中だよね。」そして、「二人ともバイトでお金を貯めて、世界に旅に出て答えを見つけよう」という目標を抱いた。

2011年3月11日。いわゆる『東日本大震災』が起こった。「メルトダウンが起きたか?」とも言われた。父は、「この際は有給休暇を使って一度沖縄に逃げなきゃ。」と言い出し、スーツケースに物を詰め始めた。私は、街の人の下がったムードの中で生きていける気がしなかったので、「まずは大阪に行くわ。。お笑いの街やし…。」と言い、夜行バスのチケットを購入し、大阪に逃げた。

…なんという逃げ腰な家族!「親戚が被災して…。」と嘘をつき、バイトを辞めて、学校も出席するのをやめて、大阪で好条件の安いシェアハウスを借りて、通信講座を受けることにした。この時から流れ癖がついてしまった。

大阪が気に入った。1ヶ月が経過した。暖かい雰囲気で溢れるこの土地に慣れてきたけれど、結局独りで過ぎていく時間。心地よい雰囲気をくれるカイトを呼びよせたくなった。「一緒に大阪で住もうよ。バイト見つけて。シェアハウスは男女別々だけど、すぐ隣やし。」

…すぐ来てはくれなかった。カイトはそんなに早く決断ができる子ではないらしい。あとで1週間くらいは来てくれた。そのうち、気持ちも冷め、横浜に戻ることになった。

父は結局のところ沖縄に逃げたわけではなく、彼氏の熱意に引き込まれ、二人で仙台まで援助活動に行っていた。

結局のところ、マイペースでしかない家族とともにあるのが私の人生だ。これからもそんな人たちとそうでない人たちとすれ違いまた、関わることになる。