「やめてください」と周囲を見回して私は頭を上げない井原さんの腕をゆすった。患者さんやお見舞いの人がこちらをちらちらと見ている。変な噂がたつと困る。

「では、あなたの連絡先を教えてくれる?」
頭は下げたままちらりと私を覗き見るようにしていたずらっっ子のように笑っている。

そういう作戦ね。

「教えますから、頭を上げて下さい」

私は速やかにあっさりと降参した。
どのみちケイのことが知られているのなら私の素性なんてすぐにわかるはず。

「連絡先を教えるだけじゃなくて、俺との時間を作るってことだよ。逃げないでね」

頭を上げた井原さんはさっきより笑顔だ。
この人結構腹黒い。まあ、大企業の専務なんて腹黒くないと務まらないだろうけど。
一人称も私から俺になっている。

「わかってます。逃げたら今よりもっと大変なことになるんですよね」

「察しがいいね。さすがだ。桐山さん、今日の仕事は何時まで?」

「17時半ですけど」

「では、19時までにここに連絡して」
もう1枚名刺を渡された。

「こっちはプライベートの連絡先だから」
確かに会社名も役職も入っていない。シンプルに住所、名前と電話番号、メールアドレス。

ふうん。そういう事専用の名刺か。
軽い男なのね。

「何か勘違いしてない?これは女性を口説く為の名刺じゃないよ」

あらいやだ、私ったら顔に出ていたのかな。

「普通はそう思いますよね」クスッと笑って言ってやった。
少しくらいは反撃しても許されるでしょ。

「そうやってストレートなものの言い方をするところも気に入ったよ。どうしても今夜会いたいんだけどどうかな」
腕組みをしてニヤリと笑う。

やっぱりこの人は自分が誘えば皆が付いてくると思っているタイプのヒトなんだろうか。
ただ、悪い人ではないような気がする。

私には人を見る目はないからあてにはならないけど。