「待ってよ、千春ちゃん」

「ごめんね、もうそんな人はいないんだ。だから、その名前は呼ばないで!」

そう言って私は、走り去ろうとした。

「待って!」

そう言って走り去る、私の白い手を背後からつかんだ若い男性。

私の白い手に、やわらかい感触が伝わる。

「………」

私は、ゆっくりと後ろを振り返った。

私の瞳に、新井俊の姿が映った。
新井俊は仕事で、私の悩みを相談してくれていた、スッタフの中でも一番なかのよかった人だ。

「俊………」

私は、彼の名前を口にした。

彼の頬を赤くなっており、私を握っている手に力が伝わる。

「千春、次の仕事もがんばってね」

「ありがとう、俊。いろいろ、お世話になったね。でも、もう千春という人はいないよ」

私は、おだやか声でそう言った。

二年間、彼と一緒に仕事をした記憶がよみがえる。
辛かったときも悩んでいるときも、いつも彼が私の悩みの相談にのってくれていた。

「そ………そうだよね」

それを聞いた俊は、ぎこちない笑みを浮かべた。

「じゃあ私、もう行くね」

握っている手を離して、私は彼に背を向けてゆっくり歩き出した。

「まって、梢!」

ーーーーーードクン!

背後から彼が私の本名を呼んで、心臓がドクンと跳ねた。

いつぶりだろう、私が男性から下の名前で呼ばれるなんて。

「なに、俊」

俊に本名を呼ばれて、私は後ろを振り向いた。

「梢さんという方は、いますか?」

俊は、顔を赤くして恥ずかしいそうに訊いた。

「います」

私は、短く答えた。

「梢さんは、好きな人はいるんですか?」

俊は、緊張した声で私に訊いた。

「いたよ、少し前にね」







《完》