「ここは、病院よ。貴方は、海に落ちたらしくて運ばれてきたの。その時に、身分を証明するものが全部流されてしまったみたいで、貴方の身元はわからないのよ。そして・・・」
 彼女は少し考えるように口を閉じ、それから意を決したように再び口を開いた。

 「そして、どうやら貴方は事故のショックで記憶を喪失しているみたい」
 「き・おく・・そう・・しつ・・?」
 一瞬で体中に恐怖が走り、時が止まったかのように感じる。
 「キオクソウシツ」という言葉が、信じたくなくても自分に「現実」を思い知らせてくる。
 呪文のように何度も何度も「キオクソウシツ」という言葉をつぶやいてみる。
 とりあえずこの言葉を少しでも受け入れるために、私に出来ることはそれしかないと思ったからだ。
 何度もつぶやいたあと、私は目を閉じ、そして大きく深呼吸をした。
 不安や恐怖はもちろん消えないが、自分に今何が起こっているのかはわかった。
 (落ち着くんだわたし。落ち着け。)
 そう言い聞かせて、再び目を開く。
 目を開けた先には、手を握りしめたまま私を心配そうに見つめる彼女がいた。
 「すみません、いきなりのことで取り乱してしまって」
 落ち着いてみると、取り乱してた自分が恥ずかしい。
 彼女は、そんな私の様子をじっと見ていたが、落ち着いてきたのを察して少し微笑むと優しくゆっくりと話はじめた。
 「人間ってね、忘れてしまうこともあれば、思い出すこともできるの。それは記憶する部分の気まぐれでね、忘れたくないのに忘れたり、反対に忘れたいのに忘れられなかったり。なかなか思いどおりにいかないときもあるわ。でも、自分にとって大切なものは、自分自身のどこかに必ず眠っているから。だから、時間はかかっても必ず貴方の心に戻ってくるわ。ね、自分を信じましょうよ。貴方なら大丈夫。きっと、大丈夫よ。」
 そういって、彼女は窓の方に向かうと、風で揺れているカーテンをたたみ、端の留め具で固定した。
 彼女の言葉には、優しい力がある。
 私は、一回うなずいて、ふと、彼女のことを何も知らないことに気付いた。思わずふふっと笑う私に、彼女はどうしたの?という視線を向ける。
 「いえあの、私まだ貴方の名前を聞いてないなって思って。」
 ああ、という顔をして彼女は答えてくれた。