あの時、彼が私の背中を押してくれなければ、あのまま逃げ出し面接を受ける事はなかっただろう。


 奇跡的に採用となった私は、入社してから何度か彼の姿を見かけた。

 企画開発部のやり手だと言う事は分かったが、お礼を言う事も出来ず、彼は、アメリカへと赴任してしまった。

 彼が戻ってくるまで、頑張って仕事をしようと思っていたのだが、二年後に戻って来た彼は、副社長となっていた。

 社長の息子だったのだ。

 あの時、ミネラルウォーターをくれた彼のイメージとは違い、無表情で人を寄せ付けないオーラとなってしまった彼に、声などとても掛けられる事は出来なかった。
 
 彼は、雲の上の人になってしまったのだ……


 もちろん、三年前の会話など彼が覚えているはずなど無いと分かっていても、密かに思いを寄せていた。



 エレベーターから降り、出口へ向かう副社長を受付の明美が、これ見よがしに笑顔を向ける。

 私は、ふっとため息を着き、くるりと向きを変え歩きだした。


「森田湖波さん」


 後ろから掛けられた声に、そっと振り向く。


「はい」

 返事をしながら見上げた先には、表情一つ変えないクールな副社長の視線と重なった。



「総務に今日付けで頼んである書類があるのですが、森田さん確認してもらえますか?」

 副社長は、さらっと言ったのだが……


「あ、す、直ぐに確認します」

 私は、突然の事に緊張してしまい、しどろもどろに答えてしまった。



「いや、私もこれから出かけます。そうですね、五時に私の部屋に届けて下さい」


「それなら、わたくしが……」

 副社長より一歩後ろに立っていた、確か秘書の栗原さんだったと思うが、年配の落ち着きのある男性が言った。


「いえ、森田さんにお願いします」


 副社長がきっぱりと言うと、栗原さんはニヤリとして私を見て言った。



「それでは、お願いします」


「あ、は、はい」


 私は深々と頭を下げた。


 二人が遠ざかる足音に、私は頭を上げた。


 一体、どうして私に…… 

 必要な書類なんて、いつも秘書の栗林さんが管理しているのに…… 


 そんな事を疑問に思いながら歩きだすと、確かに、痛い視線を感じる。


 怖くて振り向けないが、受付の明美の視線だと確信した。