いつも通り、総務の書類を配っていると、廊下の向こうから河合さんがにこやかに近づいて来た。

 別に珍しい事でも無く、挨拶程度の会話はいつだってする。


 だけど、今日は違っていた……


「森田さん、お疲れ様……」

 河合さんは、いつものように挨拶してきた。


「お疲れ様です」

 勿論、いつものように、返事を返す。


 しかし、河合さんは、そのまま通り過ぎて行かなかった。


「森田さん、今夜空いてない?」


「えっ?」

「一緒に食事でもどう?」


 うわ―っ、なんて断ろう……


「仕事が終わるかどうか?」と

 曖昧な返事を返した。


「一ノ瀬さんも誘って、美味しいイタリアンの店に行こうかと思うんだけど……」

 ちょっと伺うように、河合さんは私を見た。


「香と?」

 最近、香とゆっくりおしゃべりもしていない…… 

 香に話したい事もあるし…… 


 すると、河合さんが背筋をすっと伸ばし頭を下げた。

 副社長が秘書の栗林さんと一緒にエレベーターから降りて歩いて来る。

 私も慌てて頭を下げた。


 副社長が通り過ぎると、少し、考えてしまった私に、河合さんはここぞとばかりに言いった。


「仕事終わってからでいいから…… 一ノ瀬さんに場所を伝えて置くから」

 そう言うと、河合さんは、私の答えも聞かずに行ってしまった。


 小さくため息を着きながら、廊下を歩いた。



 廊下の角を曲がった瞬間、思いっきり腕を引っ張られ、転がるように階段の影に押し遣られた。

「ひっ……」

 悲鳴を上げそうになった口を押えたのは、副社長だった。


 ほっとして力を抜くと、副社長も押さえていた手を離してくれた。


「なっ…… 何するの?」

 私は眉間に皺を寄せ副社長を睨んだ。


「河合と行くのか?」


「違うわよ。香と話がしたいだけよ」


「だったら、河合の居ない時でいいだろう!」

 そっぽを向いて言った副社長の手が、思いっきり私のおしりを抓った。



「いっ、痛い」

 私は顔を赤くして怒ったのだが……


 すると、副社長が、そっと耳もとで囁いた。


「今夜、マンションで待っている」

 副社長はそのまま、クルリと向きを変えた。


 そっか、副社長はやきもち焼いてくれたんだ……


 私は嬉しくなり、なんだか副社長が可愛くて「クスっ」と笑ってしまった。


 気付かれないと思ったのに、歩きかけた副社長は足を止め、振り向いて私を睨んだ。


「なんだよ?」

 副社長の怪訝な顔に、私はすっと近づいた。


 そして、私は副社長の頬にキスをした。


 一瞬驚いた副社長の顔が、ふっと和らいだのが分かった。

 副社長は私の頭をなでると、いつもの凛々しい仕事の顔にもどり、颯爽と廊下を歩いて行った。


 その姿を、私はじっと見つめた。


 いつまでも、この幸せが続きますように……