6月19日。
午前7時という、かなりの早朝。
朝の涼しい風。次第に差し込んでくる太陽の光。遠くに張り出してきた、どんより雨雲に嫌な予感をヒシヒシと感じながら、集合場所の新横浜駅に向かって長い長い橋の上を、ただただ歩く。
白シャツにグレーの制服ズボン、スポーツバッグを肩から掛け、片手にはご存じ俺の相棒、アクエリアスを掴んだ。振り返ると、後ろをこれまたどんより付いてくる一匹のチビが居る。
「ねぇー、もう帰ろー……」
まだ言うか。
「足痛い。肩痛い。ねぇー!」
ムダ口を叩きながら、グレーのスカートから微妙にはみ出た白シャツを、そのチビ……右川カズミは中途半端にねじ込んだ。いつも愛用のドでかいリュックより小さめの旅行バッグを斜め掛け。寝癖でいつも以上にモジャモジャな頭を撫でたり掻いたりで整えながら、仕方なくといった様子で後を付いてくる。
「人権侵害だよ。あたしの意志はどうなる訳?学校側にここまで強制する権利あんの?」
双浜高校、ブラック認定。
どったんばったん、超迷惑。
ちょっと、ちょっとちょっと、金が勿体ない。
名古屋より西には行きたくない。関西人が性に合わない。うどん汁のクセが凄い……などなど散々文句を垂れ流し、何を言っても、こっちの態度に全く変化が無いと分かると、
「いや~沢村ってば、最近モテモテ?優しい奴だってアキちゃんも言ってたなぁぁぁ~」
だから逃がせとばかりに、今度は持ち上げ通しだ。
自分の目的のためには、敵を褒めあげる事も厭わない。嫌な事から何が何でも逃げようとする所は、相変わらず。
「覚悟決めろよ。往生際の悪い」
〝引きずってでも連れて行きます〟
俺は山下さんと約束した。帰れとは、言いたくても言える訳が無い。
橋の反対側に目をやると、そこには見知った連中が居た。仕方ない事とはいえ、この状況を見つけられてしまう。
「ういっす!沢村く~ん、朝からイヌの散歩かな?」
「ちーっす!きょうだいで初めてのおつかいかな?」
「仲良く同伴、来たーッ!」
大橋の大通り。通り過ぎる大型トラック、普通車、一般人を挟んで、あっちとこっちで恥を晒し合った。
何が、仲良く同伴だ。見れば分かるだろ。これから〝修学旅行〟という大イベントを前に、これほどノリの悪いツーショットが何処に居るんだ。
……話は3日前に遡る。

「来週って、何かあるの?」
お馴染みの右川亭でノリを待つ間、突然、山下さんからこう尋ねられた。
「一応、修学旅行ですけど」
「それっていつ?何処に行くの?カズミの奴、知ってんのかな」
矢継ぎ早に訊ねられた。
1つ1つの質問に応えていくうち、山下さんが修学旅行について右川から何も聞かされていない事は十分に分かった。そして昨日の事だ。右川亭に通じる道の前で山下さんに呼び止められて……待ち伏せされていたと、嫌でも分かります。ははは!と、山下さんは豪快に笑って(誤魔化して)、「ご馳走するから入ってよ」と強引に引き込まれた。
「実は、沢村くんにお願いがあるんだけど」
でしょうね。
店内テーブルで向かい合わせ、何故か改まって見つめられている。嫌な予感がぷんぷんする。
「明日の修学旅行。どうにかカズミを連れてってくれないかな」
聞けば、どうも右川が修学旅行に行きたがらないらしい。
それは何となく、妙な気がした。そんなお遊びイベントには真っ先に飛びつきそうなヤツなのに。そして、頼まれてしまったら……それも山下さんに頼まれたら、俺的に断れない。帰り際、新作映画チケットを捻じ込まれたりなんかしたら特に……猛獣使いにでもなった心意気でやってやるかと……当日を迎え、本日6時というかなりの早朝。右川亭前。
山下さんに引っ張られて店から出てきた右川は、
「あたし、行かないってば、もう!」
眠そうに眼を擦りながら、さっそく駄々を捏ねていた。かなり手強いぞ。
アフロ一歩手前の寝癖も見苦しい事ながら、白シャツのボタンが上から2つ開いていた。右川が動く度、喉の下から肩に掛けて、襟の隙間からわずかではあるが白い下着の線が覗く。朝っぱらから、濃ゆい。いくら相手が獣と言えど、こっちも少なからず動揺してしまった。
「こら。男子の前で、だらしないぞ。ちゃんと前留めろ」
山下さんに怒られて、右川は渋々前ボタンを留めた。
そして、旅行バッグを押し付けられる。
「昨日小遣いやったろ?広島でお土産買ってきてよ。広島カープの何か」
最初は優しくなだめていた山下さんだったが、「そんなのネットで買えばいいじゃん。おこづかいなんか、いらないもん」と何を言っても右川は聞きいれず。
最後は、「とにかく何でもいいから、とっとと行け!」と山下さんに怒鳴られ、追い出され、半ベソで、ここに至る。結論、厄介な獣である。
嫌々出てきた右川は、「行きたくない。やっぱ帰る」と途中何度も、くるりと向きを変えた。その度に俺は襟首を掴んで、「前を歩け」
逃げないように見張りながら行くという荒技をやってのける。
とにかく、この獣を新幹線にブチ込むまでは油断できない。
長い橋を渡りきり、あと10分も歩けば駅に到着という所だった。
周囲は、次第にサラリーマンやOLさんで歩道が埋まってくる。
右川が急に立ち止まった。額に手を当てて、「ううー……」と、その場にうずくまる。たまたま通りがかった中年男性が心配そうな様子で足を止めた。
すかさず、俺は警告発令。
「仮病です。行って下さい」
男性は右川と俺を訝しそうに眺めながら、その場を離れた。
「嘘ついても分かるからな」 
右川は、1度チッと舌打ち。ぐったりと立ち上がる。
そして、「ちょっと、あそこのコンビニ♪」
そうか、作戦変更か。
にっこり笑って駆け出そうとする所を、「逃げるな!」と、襟首を捕まえた。
「山下さんに頼まれた任務。俺は何が何でも全うするからな。駅までは寄り道も無し」
それぐらいしないと、隙を突いて人混みに紛れ、本気で逃げられると感じた。
「クソむかつくバレー部員。ポンコツ生徒会野郎」
悪態をついてくれるが、ここでムカついては右川の思う壺。勝手にしろ!とか言おうもんなら、は~い♪とばかりに大手を振って家に帰ってしまう。
「修学旅行に行きたくないとか言うヤツ、聞いた事もない。病気でもないのに」
「うう……何だろ。いつもの病気が」
右川は腹を抱えてうずくまった。本当に、とことん。
「いいから、さっさと歩け。山下さんにチクられたくないだろ」
何を?と、右川は聞き返さなかった。もう、有りすぎて有りすぎて。俺だってこの期に及んで、それをわざわざ声に出して話を蒸し返したくはない。
お互い無言で睨み合い、腹の探り合い、恐らく静電気程度はあったと思う。
バチバチと敵対の熱線を飛ばした。あれは……今となっては、何であの時、俺はあんな暴挙に至ってしまったのか。もう何も思い出したくない。
(よって、省略だ。知りたい人&暇な人は、第1話から)
駅の広場で出発式となる。なので、そこが集合場所になっていた。
ロータリーまで来ると、見知った仲間が次から次へとバスから降りてくる。
親に車で送られてきたノリを、すぐに見つけた。
「おまえも行けよ。仲間んとこ」
右川の背中に声を掛けた。
だが、何故かその場に立ち止まったまま、右川は微動だにしない。
ここで目を離したら今までの迷惑が水の泡。また逃げ出すかもしれない。
それを警戒しながらよくよく見ていると、
タオルで額を拭いながら、「朝から小汗かいたよ」と駆けこんできた一人の男子に、右川の目は釘付けだった。俺より少し低い背丈。陽に焼けて顔も何も真っ黒。そのせいかシャツが眩いばかりに白く映る。
右川は小首を傾げた姿勢のまま、そいつに気を奪われているのだ。
へー。ほー。
とうとう春か。救世主の出現か。
「居ない歴16年、右川カズミは、ああいうタイプがド真ん中な訳?」
右川は小首を傾げたまま、「そういうんじゃないよ」
「アキちゃんが、あいつとたまに道で会うとか言って。よく見たら、うちの男子みたいだし。誰だろうと思って」
「俺は中学から同じ」
〝鈴原翔太〟
陸上部所属。中学の頃から陸上バカと呼ばれるほどのランニング好き。孤高のジョガー。流れる汗をしきりと拭っている様子からして、今朝もさっそく、ここまで走ってやって来たか。
「ふーん。そうなんだ」と、右川にしては素直に聞いている。
「あいつ、俺と同じクラスなんだよ」
「だから何?誰もそういう情報くれとか言ってないけど」
「意地張るなって。いいじゃん。俺が繋いでやろうか」
「そだね。じゃ、よろくし。あたし帰るから」
右川はくるりと向きを変える。俺は有無を言わさず、その襟首を捕まえて担任の先生の前に突き出した。
「よかったー、ちゃんと来たか」
右川の担任、原田先生からは涙目で迎えられる。
「今朝んなって、急に休みますって電話してくるから、もーどうしようかと思ったよ」
「さっすが、お兄ちゃん」と、俺は背中をドンと叩かれた。
そう言えば、その昔、幼稚園に行きたくないと駄々をこねる弟の恭士を、こうしてイヌのように捕まえて連れて行った記憶がある。