郁也の胸を強く押すと、意外にも簡単に腕が解けた。


「……ワリイ」

「悪いと思ってないでしょ」

「林檎チャンがかわいすぎるから悪いんだけどね」

「反省してない!」


付き合ってるからいいとかそういう問題じゃないんだぞバカヤロウ。

それに、私はここみたいに誰もいない路地裏がすごく苦手だ。あの日のことを思い出してしまいそうでこわくなる。


「なあ、ゴメン」


そっと、郁也が私の手を握る。

郁也の手は相変わらず温かくて、細くて長い、ごつごつした男の子の手が、私の小さな手を優しく包む。許してしまいそうになる、ずるいよ。


「林檎さ」

「何よ」

「ほんとに初めてだよな?」

「は?」

「……過去の恋とか、聞いときたいんだけど」



『過去の恋』イコール、今までの恋、ってことだよね?


「な、何で?」



こんな場所でそんなことを聞かれるなんてタイミングが悪すぎる。必死で平穏を装うけれど、冷や汗が出る。

思い出したくない。思い出させないで。


「林檎の、過去の恋が知りたいんだよ。かっこ悪いけどさ……」



小道の木々が、一瞬すごい勢いで舞ったように見えた。


「……過去の恋、なんて」


思い出したくないのに、記憶がよみがえる。郁也は、きっと興味本位で聞いたに違いない。悪気がないのはわかってる。


だけど、まだ。まだ、私は。
あの話をできる自信がないよ。


「……そんなの、ないよ」


精一杯、前を向いている郁也にばれないように。声を、絞り出したはずなのに。


「……どうした?」



きっと声が震えていたからだろう、心配そうな顔で私を覗き込む。

フラッシュバックする、あの日のこと。

好きな人に騙されたこと、知らない男の人に触られそうになったこと。


「……今日は、帰る……」

「は?って……オイ、林檎?!」



郁也の手を振りほどいて走り出す。

足も手も震えてる、情けなくて目にジワリと涙が浮かんでくる。


郁也に、あの過去を知られたくない。


ただその一心で、私は逃げてしまった。