(……い、……居るかな………?)

実験室に辿り着いた少女─乾ナツミ─は
大きく深呼吸をすると、
いつもの様に三度扉を叩き、
そっと……扉を開けた。

「こんにちは、宗馬先生……」
「……ああ……乾。どうしたの」

白衣の男が
チラリと目線だけ向けて
無愛想に返事をする。
歳の割に童顔なこの男は
名を結城宗馬といい、
この学校の化学教師だ。
そしてこの少女の担任で、
同じマンション同じ階の住人で、
……密やかな想い人……、だ。


「学校では苗字で呼ぶ約束でしょ」
「あ…そ、そうでした。ごめんなさい…」

 二人は小さな時からの付き合いだから
苗字で呼ぶ事に中々慣れないでいる。
……慣れないまま、三年が過ぎてしまった。

「実験ですか」
「いや……明日の授業で使う薬品を
作ってるだけ。
悪いけどそこのビーカー取ってくれる…」

試薬作りと弓道以外に興味の無い
異国人の金髪教師は
極、当たり前のようにして掌を差し出す。
さながら大学教授がオペをする際にメス、
という程に自然に。

「あっ……はい」

しかし、
回転の遅いナツミは
そのスマートな流れに
毎度の事ながら着いて行けず、
ワタワタと辺りを見回す。
手前の机に同じ大きさのビーカーが
五つ並んでいるのを確認すると、
急いで両手一杯に持って
向かいに居る結城に渡そうとするが、

「きゃ……!」

躓いて、
ナツミの身体が結城めがけて倒れかかる。

「危な……!」
咄嗟に男は大きく両手を広げて
受け止める姿勢をとった。

カシャン!……という音と共に、
ガラスが床に散乱した。

「……何やってんのあんた…!
ほんと鈍臭いね」
「ご、ごめんなさい……!」
(また失敗しちゃった……!)

焦って顔を上げると、
目の前に端整な麗顔の男が
大きく瞳に映った。
その距離、僅かに拳一つ分。

(……わ、わ、わ………っ)
結城の広い胸の中に抱きとめられて、
ナツミの心臓が
有り得ないほど高鳴りしている。
ほわ…とこの男特有の
柑橘系の香りがナツミの鼻を擽る。
爽やかで甘く……優しい香りだ。

(……そ、宗馬せんせ……いい匂い………)

しかしこの状況に酔いしれている
場合では無い。
床には三つのビーカーが
元の造形が分からない程に
粉々に砕け散り
床に散らかっているのだ。

「大変……、掃除……!」
「ちょ…!片付けなんていいから下がって」

急いで床に屈もうとする娘の肩を、
男は力一杯引き上げた。

「怪我するから」
「でも、…あっ…痛!」

無心でガラスの欠片を手に取った瞬間、
指に鋭い痛みが走り、
ナツミは思わず身を縮めた。
破片で切ったのであろう、
赤い筋が小さく走っている。

「言わんこっちゃ無い」
「うう……。ご、ごめんなさい……」

何処までも不甲斐ない。

「……指……」
結城はそっ…とナツミの手を掴んで
傷口を確認すると、
「……ちょっと待ってて」
ひょい、と少女を抱き上げた。

「そっ……そうま先生……!」
「ガラス散らばってて危ないでしょ」

慌てふためくナツミと反対に、
結城の表情は至って冷静だ。
眉一つ動かさない。
細身の身体の何処からそんな力があるのか
……軽々と女一人持ち上げている。

男はそのまま教壇までナツミを連れて行くと
其処で降ろし、
引き出しから救急箱を取り出した。
中身は勿論、
自作の軟膏ばかりが羅列されている。
他にカットバン、包帯。
結城は消毒液で
ナツミの指を丁寧に拭くと、
傷に効くと自負している軟膏を指にとり
……優しく塗り込んでゆく。

「………………。」

……こんな風に……
異性に触れられた事の無いナツミは、
脈が異常な速さで打っており…気絶寸前だ。

(……先生……睫毛……長い)

透き通るエメラルドの瞳を
細い絹の睫毛が撫でるように縁取っている。
柔らかい金色の髪はふわふわと揺れて
子猫の産毛のようだ。

「これでよし」
(ハッ!)
結城の、
外見よりも幾らか低い声色で呟かれ、
うっとりと見惚れていたナツミの意識が
呼び戻された。

「ありがとうございます……」
手当てして貰った左手の人差し指を見ると、
丁寧にカットバンが貼られていて、
ナツミの胸がきゅう…と締め付けられる。
普段無愛想でニコリともしない男だが、
優しさは限りない。

「別に大した事してない。
それより大丈夫なの。他に怪我は?」
「あ………」

そうだ、と思い自分のポケットを探る。
──今、チョコレートを渡すチャンスだ。
しかし。
(あ……!)

転んだ衝撃で箱が潰れ、
リボンが外れてしまっている。

(……こ、こんなの渡せない…!)

不器用なナツミが、それでも懸命に、
……ありったけの想いを込めて作った
本命のチョコレートだったのに。

完全に戦意喪失したナツミは、
死んだ魚のような目で遠くを見つめながら
フラフラと立ち上がると、
「………じゃあ……私、もう帰ります」
そのまま実験室を出た。

「え…乾?」

……結局、一体何をしに来たのか……?
結城も呆然とその後ろ姿を見送った。




*****




結城は実験室の施錠を確認すると外に出た。

──と、
……見慣れた黒髪の女生徒が
エントランスに立ち尽くしている。
……ナツミだ。

「……あんた何してんの、こんなとこで…」
「あっ……先生………」
思わず声を掛けると、
少女はくるりと振り返った。
手に傘は……無い。

「……もしかして、傘、忘れたの……」
「う……。は、はい……」

ナツミは苦笑いをして下を向いた。

「雨……降るって…知ってたんですけど」

今日は午後から雨だと
ニュースで知っていたのだが、
ナツミはチョコレートを渡す緊張で
そんな事はすっかり忘れていた。
尤も、
……その肝心のチョコレートは、
……渡せていないまま
今日という日が幕を閉じようとしているが。
挙句、傘もない。情けない。

しょんぼりと肩を落としている
艶やかな黒髪の女生徒に、
結城は大きく溜息を吐くと、

「ほら………。……入りなよ」

紺色の男物の傘をぱん、と差すや、
手招きしてナツミを迎え入れた。

「えっ……で、でも………」
「でも、じゃない。こうしないと、
あんた帰れないでしょ……」
「………………。」
「……同じマンションだから仕方ない。
入れてあげる」

「ありがとう……ござい……ます」

ナツミの頬はまたしても、
かぁ…と熱くなる。

(どうしよう……。やっぱり……凄く
……好き……)

只の無愛想な近所のお兄さんだったのに。
……いつの間に、
こんなに締め付けられるほどに
恋してしまったのだろう。


交通量の少ない細い路地を
二人で並んで歩く。

二月の肌寒い空気が雨で益々冷たく重く、
男女の身体を包む。
特に会話らしい会話をする事も無く、
結城は真っ直ぐ前方を、
ナツミは少し目線を落として進む。

角を曲がったところで、
結城が囁くように声を溢した。
「……あと少しで卒業だね」

次いでナツミも控え目に溢す。

「はい……。あっという間でした」
「だろうね」

……暫しの沈黙の後、
ナツミがふふ、と口に手を当てて微笑した。

「同じマンションの階のお兄さんが、
まさかの自分の化学の先生だったとは
驚きました」
「……俺もまさかの同じ階の中坊が
自分の学校に進学してくるとは
思わなかったけどね……」
つられて、……結城も口元を緩める。

「宗馬先生には本当にお世話になりました。
海外赴任で両親不在の私の保護者代わりに
なって下さって……」
「大袈裟な事言わないでくれる……。
風邪ひいた時に薬持ってった
だけでしょ……」
しかも、自作の漢方の試薬を。
「で、でも、凄く嬉しかったんです。
風邪で気弱になってたから……」

高熱で寝伏せっているナツミの額に
幾度も濡れタオルを乗せてくれ、
お粥を作り、眠るまで、
……隣に居てくれた。

「……そーいうあんたは、
俺が風邪引いた時にお粥作って
わざわざ持ってきてくれたよね。
……底が丸焦げの」
「あっ……あれは、水加減を間違えて
ですね……!」
「弱った人間にカチカチのお粥与えて
殺すつもりだったの」
「ち、ちが……あれはっ……」
死ぬ程恥ずかしいし、情けない。
弁解したいが、
言い訳が思い付かず
顔を真っ赤に染めているナツミを
結城はチラリと盗み見るや、

「嘘」
「えっ……」

「嬉しかった。……素直に」

大きく微笑み、
ナツミの頭をぽんぽん…と優しく叩いた。

「ありがとう」

「……宗馬先生………」

(ああ……)

やっぱり………
(もうだめ……)
伝えたい。本心を。
………溢れて仕方ない、
……この、想いを。

鼓動の一つ一つが
……甘い切なさを産み出しては、
身体中を覆う。
痛い程の…好きという感情に、
自分の何もかもを持っていかれそうだ。


「到着」
「……ぁ」
 見慣れたマンションに到着した。

 渡すなら、今しかない。

「宗馬先生……!」
「は……?」

ナツミが意を決してふり仰ぐと、
金髪の男が不思議そうにこちらを見ている。

……金色の髪から銀の雫がポタポタと零れている。

……傘は、
最初からナツミだけが濡れないように
差されていたのだ。

その事実が、
……大人の入り口に佇んでいる少女の背中を
後押ししてくれる。


迷いは消えた。


「あ、……あの、これ…………」

ナツミは
ポケットから小さな桃色の箱を取り出した。
端が凹み、
檸檬のリボンが少し歪んでしまっている。


「え……」
「………そ、宗馬先生に……、わ……
私……から……。受け取って………下さい」

声が自分でも分かる程に震えている。
昨晩何度もリハーサルしたように、
サラッと気軽な感じで渡す事など、
……やはり到底無理だった。


「…………………。」


沈黙を雨音が彩る。

(……早く……う、受け取って欲しい……)


いつまで待っても差し出したチョコレートを受け取って貰える気配が無く、
ナツミはぎゅう…と閉じた瞳を
そっと…開いた。

結城と、視線がぶつかる。
……男は、無表情だ。


「…………これ………何のつもり?」

……小さな間の後、
一文字に引き結ばれていた唇が開き、
……ぽつりと呟かれた。

「…えっ?」

「………俗に言う、義理チョコってやつ?」

「………………。」

「それとも、………そうじゃ、ないやつ?」

「………そ……れは……」

(いま……)

(…………言ってしまえば………
どうなるの…………?)


……今迄みたいに、
無口で無愛想だけど本当は優しい近所のお兄さんと鈍臭い妹、
いう居心地の良い関係が……
終わってしまうのだろうと思う。
楽しくて、……幸せだった。
このままの関係が
ずっと続いたらいいな…と思っていた。
─そのままで良い筈だったのに。


しかし募る想いはいつの間にか
その垣根をゆうに超え、
もっと側に寄り添いたいと思う自分が居る。

(言っちゃおう……)

寧ろ、言いたい。この、想いの丈を。


(あと、少ししか無いんだよ……?)
(宗馬先生と一緒に居られるの………)
(自分の思いは………伝えたいよ………)

例え……受け入れて貰えなかったとしても。


射抜くような男の眼差しが、
ナツミに向けられている。
美しい深い碧の……瞳が。


「あの、そ、そのチョコレートは」
「もし」

結城の……声色が変わった。

「えっ……」
「もし、義理チョコじゃなくて
本気のやつだったら…………」

低い声が……掠れている。
「えっ……………」

ぱたぱた ぱたぱた と、

…………二人の会話を消すほどの雨粒が、
一つの傘に……
静かに振り落ちる。


……男の………最後の言葉は

………黒髪の美しい、女生徒にだけ、


………小さく聞こえた。