階段をおりて一番奥が洗面所だ。途中、リビング横のガラス扉の前でなんとなく足を止めた。最近はこんなことも減っていたのだけれど。
この家を建てる時、私のわがままでつくってもらった小さな部屋だ。アップライトピアノがギリギリ入る程度の大きさで、扉を開けた真正面にはピアノと楽譜を入れる小さな棚だけ。それ以外はなにもない防音室。当時小学二年生だった私にとってはとても広く感じられたけれど、今の私にはとても狭く感じる。もうずっと、ここに足を踏み入れてはないけれど。
無意識に動きだした右手の指先に気づいてとっさに左手で押さえる。ガラスの奥にぼんやりと映ったピアノの影を見ないように、足早にそこを通り過ぎた。やっぱり立ち止まるんじゃなかったとまたモヤモヤが湧いてくる。ピアノを見ると、余計なことばかり思い出してしまうから。
洗面につき、水でパシャパシャと軽く顔を洗ってから顔を上げると、鏡に映った自分と目が合った。ストレートのセミロング。前髪だけ毎朝少し巻いているけれど、なにもしなくても大して変わらない。どこにでもいるような、普通の女の子。
いつもより顔色がよくない気がする。やっぱり少し疲れているのかもしれない。
自分の目の色が夢の中で見た雨夜の瞳の色とよく似ている気がして、なにを考えているのだろうかとまた頭が痛くなった。
「那月」
ふと後ろから声がして視線を上げると、鏡越しにお兄ちゃんと目が合った。
「もう帰ってきたの? めずらしい」
「ああ、ちょうど今な。母さんがご飯だって呼んでる」
そう言って背を向けたお兄ちゃんについていく。リビングは洗面所を出てピアノの部屋を越えた玄関横にある。



