しかも。 タイミングが悪すぎる。 メキシコとの交渉を経てローマにまで行き、バチカンで教皇パウロ五世に謁見まで果たした支倉常長が帰国したのがこの年で、 「陸奥守(政宗)はメキシコとの交易より、バチカンに人をやることが主眼であった」 というような奉書も、随行の幕臣から上がっている。 かかる時機に秀宗が清兵衛を処刑したことは、つまり伊達家の分裂を意味した。