結局。 このときには将軍となっていた秀忠が、 「将軍の下知である」 と政宗に台慮を示し、宇和島への取り立てが決まったのであった。 石高は十万石である。 格も、分家ではなく別家という扱いになった。 「仮にも側室の子とはいえ、本来ならば仙台を嗣ぐ者であったものを、秀頼どののおぼえめでたき小姓であったからとて廃するは理に非ず」 と義理の兄弟でもある井伊直孝が主張したことによる。