第八話 大波乱の幕開け

「えっ、バイオリンが?!」

舞台の本番当日

彩七と同じく匿名で顔を隠して出るはずだったもう一人の出演者のバイオリンが紛失するという事件が発生した

「か、開始までにもう一度メンテナンスをしようと思って今日、楽屋入りする前にスタッフさんにお願いしに行っていたんです」

泣きそうな顔で人々の中心にいたのは多岐(たき)という、彩七と同じくらいの歳の子だった

スタッフに声をかけに楽屋を空けた数分間のうちにバイオリンが消えていたという

「いくらあんな綺麗なマスクを作って頂いても…あの子じゃないと、だめなんです…!」

必死に懇願する多岐

スタッフ総動員でバイオリンの捜索が始まった


「…ごめんなさい、彩七さん
私の不注意であなたの出番まで遅らせることになってしまって…」

一旦休憩室に移動した彩七と多岐

多岐は申し訳なさそうに俯いた

「気にすることないわ

…私だってもし多岐さんの立場だったら、演奏なんて出来ないもの」

バイオリンは、バイオニストにとっての相棒で

予備のバイオリンがあると言われても、プロで無かったとしても…

自分だけの相棒は、あの子だけだから。

「早く見つかるといいね」

彩七はできるだけ明るく、多岐に笑いかけた


「…そういえば、多岐さんはどうして今回の公演に出演する事を決めたんですか?

それに顔を隠してだなんて…」

彩七が尋ねると、多岐は寂しそうに笑った

「…お恥ずかしい話、私元々李咲先生の教え子だったんです」

李咲(りさき)先生というのは舞桜楽氏のライバルであり、対立した楽団の団長でもあった

「李咲先生、最近お体を崩されて…
楽団は解散。
みんな、バラバラになったんです」

ぱっと顔を上げた多岐は彩七の目を見つめる

「そんな時、舞桜楽先生にお声をかけて頂いて。

先生を裏切るような真似、したくはないのですが…
どうしても、もう一度あの子と舞台に立ちたくて」

李咲の一番の教え子だったという多岐

恐らく、相当な実力者なのだろう

「…舞桜楽先生が私にくださったあのマスク、とても美しくて

私のバイオリン、私の希望で真っ黒なんですけど…漆黒のバイオリンに似合う、とても綺麗なもので」

多岐のマスクは彩七とは違い、真っ白なベースに漆黒と金色で飾られた薔薇が散りばめられていたという

「…私のバイオリンを一目見た瞬間、元々用意してくださっていたマスクじゃだめだと新しく作り直して下さったそうです」

そう言って自分のカバンからそれを取り出す

「わぁ…!」

言っていたとおり、とても美しいものだった

「彩七さんのマスクは、どんなデザインなんですか?」

多岐がわくわくした顔で尋ねる

「私も、亭主さんが作り直して下さったんです」

彩七のマスクは、前回のトランプのようなマスクとは全く違うデザインになっていた

「…私のバイオリンは深紅の赤なの
深紅の薔薇が好きだったお母様に気に入られようと、小さい時必死で…」

昔の話を口にすると、過去の光景が浮かんでくる

たまに帰ってくる母の足音を待ち続け

私の音色が楽しみだと、目を閉じて聞き入ってくれた母

次第に帰ってくる頻度も少なくなって

いつの間にか、私のバイオリンなんて忘れてしまったように

母は、知らない人になっていた

「…お金があっても得られないものがあるって、こういう事ね」

彩七はそれに気付いた

どれだけ裕福な家庭で育っても

どれだけ日々が満たされるもので溢れていても

子供ながらに欲しかったものはそれじゃなかった

おもちゃでもない

可愛い人形でもない


ただひたすらに、愛されたかった

「…ずっと愛され無かったのなら、こんな思い、しなくて良かったなんて思う時もあるの」

「彩七さん…」

「…人なんて、大きくなって周りを知れば知るほど、変わってしまうのね」

寂しげに窓の外を眺める彩七

窓の外は、快晴だった


「えーっと…」

多岐のバイオリン捜索が始まった頃

ホールの外では、サングラスをかけた男がキョロキョロとしていた

「ここで合ってるはずなんだけど…」

人、多すぎねぇか…

相変わらずごった返す人の波に呑まれないよう、少し離れた場所からそれを眺めていた

「…関係者入口ってどこだ?」

彩七から事前に関係者パスポートを貰っていた彼

「…まあ、探すか」

一息ついて、ホールへと歩みを進めた


「あれ、零くん?!」

驚いた顔で彼の少し前にいた女性が駆け寄ってくる

「…げ。」

「げ。ってなによ!げ。って!」

彼女もサングラスをしており、髪をかきあげそれを外す

「…春奈、なんでお前がここに?」

「そーれはこっちのセリフよ!
零くん、こういうの興味あったんだ?」

現れたのは春奈だった

「…まあ」

「どうせ彩七ちゃん絡みだろうけど?」

…分かってんなら言うなよ

零が明らかに嫌そうな顔をして再び歩き出す

「え、ちょっと待ってよ!
どうせなら一緒に行こうよ!」

ひょこひょこついてくる春奈

「…お前、一般?」

「イエス!

…まあ、彩七ちゃんに別の用事があって来たんだけどね」

「別の用事?」

「あー…うん、そう!別の用事」

一瞬、しまった!という顔をした春奈

しかしすぐにニコニコとした笑顔に戻る

「彩七ちゃん、まさかバイオニストだったなんてね!
知らなかった!」

春奈の口から彩七の情報が出る事はあまり無い

意外そうに零が尋ねる

「…あいつと話したのか」

「んー…まあそんな所!」

先ほどから煮え切らないような春奈の態度

違和感を感じた零は春奈の肩を抱き、あまり人目につかない所へと移動した

「ちょっ…零くん、どうしたの?」

春奈は満更でもないような顔で零を見上げる


「お前、何を企んでいる」


突然の真面目な声に、春奈は表情をスーッと変える

「何も企んでなんかいないわよ
ただ純粋に…」

笑顔に戻ろうとする春奈を壁際に追いやり、強く顔横の壁を叩く

「…彩七に手を出してみろ、ただじゃおかねえぞ。榊」

春奈を名前ではなく名字で零が呼ぶ時

それはすなわち、嘘がつけない状況を表していた


零は感情を失くしたように目の光が消え、組長としての顔になる

こうなってしまうと、春奈も諦めたのか…

渋々、口を開いた

「…組長、宮内財閥は知ってるわよね」

「…宮内?

確か、お前の家も部下として入ってる世界的セレブ財閥…
一体それがどうし…」

そこまで口にし、零は一つの仮説へと辿り着いた

「…先日。そこの末の娘がある日、行方を突然くらましたの

今も世界中で捜索がなされているわ」

「…っ、まさか!」

零が青ざめた瞬間、春奈が零を突き飛ばす

「…それが、彩七ちゃんよ」

春奈の冷たい視線と、頬には冷や汗が伝っていた


同時刻

いまだ見つからない多岐のバイオリン捜索は続いていた

「…人の物を取るなんて、信じられない!」

彩七もなかなか見つからない現状に、少しいらいらとしていた

「私の管理不足でこんな沢山の人に迷惑をかけてしまって…」

多岐は自己嫌悪に延々と陥っていた


ついに開演一時間前

みんなが諦めかけたその時…

「…っ、遅れてすみません!!」

突然、一人の男が入ってきた

「ええと…どちら様でしょうか?」

一人のスタッフが男に対応する

「これ、すぐ外に置いてあったんですけど…どなたかの物では無いですか?」

彼は背中に背負っていた物を机で開く

「…!!」

多岐は目を潤ませ、中に入っていたものを取り出す

「これ…私のバイオリンです!!」

「本当か!」

「見つかったぞー!」

スタッフ達は慌ただしく動き出し、多岐はバイオリンを抱きしめたまま、座り込んだ

「良かった…良かった……」

大粒の涙を流す多岐

「関係者入口付近に、影になるように置いてあったんです」

男は目深に黒いキャップを被り、マスクをしていたので顔がよく見えない

「何はともあれ、あって良かった!
みんな、開演まで時間が無い!急いでくれ!」

舞桜楽氏の一言で、スタッフ達にスイッチが入った


「…あなた、誰?」

彩七が怪訝な顔をしてバイオリンを持ってきた男の前に立つ

「…ただのスタッフです」

そう言って彩七に背を向け、楽屋を出る

「ま…待って!」

楽屋を出た彼を彩七は引き止める

「…あなた、私と会ったことあるわよね?
何だか初めて会った気がしないの」

明らかに怪しいこの男

何やら戦慄がして、彩七は確かめずにいられなかった

「…気の所為では無いでしょうか」

男は振り向かず、少し上を向く

「…あくまでそう言い切るのね

“凛翔兄様”」

彩七は震える声を隠すように、強くその名前を呼んだ

その瞬間

彼は被っていたキャップやマスクを取り、羽織っていたブルゾンを脱ぎ捨てた

「…やぁ!久しぶりだな、彩七」

怪しげに笑う彼が恐ろしかった

ブルゾンを脱いだ彼はいつものビシッとしたスーツ姿で

髪はウイッグだったのか、それを取るとオールバックにしたブラウンの髪が見えた

「…お前、こんな所で何をしている」

凛翔の声が、一気に低くなる

「…私、もうあそこへは帰らない!
自分で自分の道を切り開くの!!」

彩七が凛翔に反論したのは、これが初めてだった

「まさか、愛しい妹に反抗される日が来るとはね…

お仕置きだ、彩七」

そう言って凛翔は彩七を倉庫へと手を強く掴み、投げた

「…っ、!!」

ガシャン!!!!と大きく音が響く

ステンレスの棚に彩七の身体がダイレクトにぶつかり、思わず痛みに顔を歪ませる

「…お前は選ばれし人間なんだ

こんな所で油を売っている場合ではない。そうだろう?」

凛翔は冷たい視線で笑顔を崩さない

「にい、さ…!!」

彩七は怒りをあらわにし、凛翔の前に立つ

「おや、まだ立てるのかい?
しぶといなぁ…!」

凛翔は彩七の服を力づくで引き裂き、そのまま押し倒すと馬乗りになる

「にいさ、…やめて…!!」

彩七が涙目になりながら必死に抵抗する

「…このまま俺と大人しく帰れば、これ以上の事はしない

ただこれ以上俺に歯向かうと言うのなら…」

凛翔の表情は、最早人のものでは無かった

「…彩七、お前もあんな恵まれた環境に居られることが当たり前じゃないって、気付けたんだろう?

だったら、俺と一緒に戻ろう」

声は優しいが、表情はまるで仮面を被っているようだった

「…私の居場所は、私が決める!!」

一瞬、凛翔の力が緩んだのを彩七は逃さなかった

驚いた顔をする凛翔を思いっきり突き飛ばし、ドアに凛翔が倒れ込む

「…凛翔兄様たちは何も分かってない!

あんな家に永遠に閉じ込められる籠の中の鳥みたいな生活…何のために生きているのか、私には分からない!」

彩七は痛む身体を抑えながら、続ける

「私は、自分の将来をあんな家に捧げるつもりなんてさらさら無い!」

強く、闘士の宿るその目は

凛翔をひどく、怒らせることになった

「…そうか、お前の答えはそれなんだな

…いいよ、お前の思いは充分伝わった」

「兄様…」

ホッと彩七が表情を崩した

瞬間だった

「きっ……あぁっ!!!!」

彩七の首元を右腕でしっかりと掴み、壁に彩七を押し付けキリキリと力を強めた

「…妹のくせに、兄に立てつくって何なの?
下は上に逆らっちゃいけないって…家庭教師たちに習わなかった?」

尚も力を強める凛翔

「に、い……うっ…!」

息が苦しい

どんどん、意識が薄れていく


…零さん……!

彩七の意識が離れる寸前

倉庫のドアが大きな音を立てて蹴破られた

「ーーー彩七!!!!」

聞き覚えのある声が、彩七の耳に届いた