第五話 葛藤と欲望

あれから数週間

ようやく部屋から出された明香沙は、あられもない姿になっていた

「…やぁ、明香沙。気分はどうだい?」

扉を開けた亜門はとても満足そうな表情をしている

「あに…さ……ごめん…なさ…」

這いつくばるように部屋から出ようとする明香沙

既に彼女は限界を超えていたらしい

「…お前達もご苦労だった。
ゆっくり休んでいきなさい」

亜門の言葉に、部屋の男たちはぞろぞろと部屋を後にした

「まあまずは…風呂にでも入ろうか」

そう言って亜門は明香沙をお姫様抱っこで持ち上げ、大浴場へと連れていった

「…どうだい、兄妹で入るなんて実に兄妹らしいだろう」

亜門が足を広げた間に明香沙が座るような体制で大きなジャグジーに浸かる二人

「……」

明香沙はあまりのショックの大きさに、言葉も出ないようだった

「人妻でありながらあんな事…どんな気持ちだった?」

わざとらしく、嫌味たっぷりに亜門が明香沙の髪をかきあげる

「……」

明香沙は、上の空だった

「…明香沙?」

彼女の耳元に唇が触れる距離で名前を呼ぶ

「…っ、!!」

「…あぁ、こんなに可愛い妹に俺はなんてことをしたんだろう!

…許してくれるかい?明香沙」

彼女の足を細長い指でなぞりながら、耳元で唇は触れる

「…っ、やめて兄さん!!
私たち兄妹なのよ?!こんな事したらどうなるかー」

明香沙が反論しようとした時、足をなぞっていた彼の手は上へと急上昇

「…まだ生意気な口をきくのかい?」

耳元から離れない唇が、明香沙の胸を落ち着かせてはくれなかった

「…っ…にいさ…お願い……」

限界だったのか、明香沙はそのまま亜門に身体を預けた

「…ふう」

亜門もそれ以上はからかうのをやめ、天井を仰ぐ

「…いるんだろう、出てきなさい」

大浴場のドアがビクッと揺れ、おずおずと出てきたのは…

「…いつから気付いてたの」

「…さぁ、いつからだろうね」

姿を現したのは由里子だった


「…兄上様に逆らうつもりはさらさらありません

でもこんなのって…あんまりだわ!」

明香沙の事を凛翔から聞いた由里子は血相を変えてここまで走ってきたという

「明香沙には明香沙の家があって…もうその子は、この家の子じゃないわ!

余計な事して出戻りでもしたらどうするの!!」

…やはり、お前は財力にしか目がないのか

ふう…とため息をつく亜門

「お前は…今の家族といるのと私たちといた頃と。

どちらが幸せだった?」

唐突な質問に戸惑う由里子

しかしはっきりと、その口は告げる

「…今よ。

この家にいた頃は何も不自由する事なんて無かった
でも、何も不自由する事が無かったからこそ、色々なことに気づけないまま…大人になったわ」

いくら財力にしか目がないとはいえ、由里子もそれなりに家族としての“愛”を求めていたらしい

亜門から明香沙を引き抜くと、明香沙にバスタオルをかけて腕を肩にかける

「…今の兄さん、まるで悪魔みたい」

そう一言残して、由里子は明香沙と浴場を去った


「…悪魔、か」

自分に向ける強い敵意

挫折を知らない亜門は、あの目を何度も何度も向けられた

しかしその気持ちになることも無く…

負け犬の戯言としか思っていなかった

「…色々なことに気づけなかった?

…知らなくていいことを知っただけだろうに」

苦労を知らない亜門

その苦労の先にある幸せすら、彼は知らなかった


「…さ、明香沙!」

次に明香沙が目を覚ました時、かつて自室として使っていた懐かしい天井が視界に映った

「……姉さん?」

ベッドに横になっていた明香沙がゆっくりと声のする方に目をやると…

目を伏せて安堵の息をつく、由里子の姿があった

「…あなたも、大変だったわね」

誰かから聞いたのだろう

全てを悟った明香沙は、由里子に背を向けた

「…笑いに来たの?」

小さい声で、いつもの調子で口にする明香沙

「笑いに来たですって?
…昔までの私なら、そうだったでしょうね

現にさっき兄上に抗議した時…昔の私を“演じてきた”もの」

「…?」

由里子の言っていることが分からず、再び彼女に向き直る

「…私、分からないことがあるの」

「…らしくないのね」

真面目な顔をして聞く明香沙に苦笑いする由里子

「…私たち昔から何をするにも不自由無くて、ヌルゲーみたいな人生送ってきたじゃない?」

「ヌルゲー…」

「…子供たちがどこからか覚えてくるのよ

それで、まともに苦労も知らずに育った
…それが、間違いだったのよ」

「間違い?」

「…ある程度の苦労は、知るべきだったのよ」

そう言って、妹の手に自分の手を重ねる

「彩七もきっと…これに気付いてたんだわ」

「…」

「…あの子は、私たちより早い段階でそれに気付いた

だから、家を飛び出したんじゃないかしら」

「飛び出したところであんな世間知らず、三日ともたないわよ」

ふん!と顔を背ける明香沙

だが由里子は優しげな口調で続ける

「…ねぇ、明香沙?

あなたはどうして財力や地位が欲しかったの?」

…どうして?

明香沙はその意味が分からず険しい顔をした

「そりゃあ…嫁ぐ前よりいい暮らしがしたかったし…周りによく思われたかったからよ!」

「…本当にそう?」

今までとは違う低いトーンで告げる

「…姉さん、さっきから何を言っているの?」

明香沙は身体を起こし、由里子と目線を合わせる

「…私ね、彩七の誕生日パーティーがあった日、彩七の顔色が悪かったからすぐ駆け寄って声かけたの

…だけどあの子、にこりともしなくて」

「…元から愛想良くないじゃない、あの子」

「そうじゃないの」

明香沙を遮った由里子は膝の上の拳をギュッと握る

「…私、きっとひどい顔していたと思うの」

目に涙を浮かべ、そう口にした

「今まであの子にほとんど興味が無くて。

私から彼女自身に対して声をかけることも無かったし…いつもの調子で声、掛けちゃったの」

「…それがどうしたっていうの」

「…上辺だけしか見てない哀しい人って、思われたんだと思う」

…上辺だけ?

「家を守るため、自分を守るために…今まで私は上に登る事しか考えてなくて。

あの子のことなんて、知ろうともしなかった…」

「ちょっとやめてよ姉さん!
なんか今日、おかしい」

由里子の肩を掴み、焦りを見せる明香沙


「…明香沙、今ならまだやり直せる

私たちは…


“間違っていた”のよ」


はっきりと、明香沙の目を見て言う由里子

その言葉に力なく肩を掴んでいた腕を降ろす

「…姉さん、この数週間の間に何があったの」

顔をしたに向けたまま、由里子に尋ねる

「…彩七がいなくなってから、ずっとその動機や原因を探していたの

もしかしたら、私たちにも原因はあったんじゃないかって」

「…」

「そしたらね…彩七、きっと私たちと同じ思いをしていたと思ったの」

「…上に登りたいってこと?」

「違うわよ」

バッと明香沙の顔をあげさせ、しっかりとその瞳を捉える

「…幼い頃に私たちが交わしたあの約束、覚えてない?」

「…っ、!!」

由里子の言葉に、明香沙はハッとする


…幼い頃、今と違って海外を飛び回っていた両親
まともに挨拶や会話をした記憶もなく、兄妹揃っていつも寂しい思いをしていた

だがどうだろう

当の親達は好きなものを好きなだけ買い与えれば、それでいいという思想で

わがままに育った兄妹たちは本当の愛情も知らず、我が道をただただ歩んだ

『っく…ひっく…』

『もう、みかさっては…泣かないの!』

ぬいぐるみで溢れた小さな部屋で、幼い明香沙は泣きじゃくっていた

『お姉ちゃん…お父様たち、いつになったら帰ってきてくれるの…?』

『…お仕事だから、しばらくまた会えないと思うわ』

少し前に数分程度帰ってきていた両親

しかし子供たちに会うことはなく、用事だけ済ませるとまた海外へと戻ってしまったのだった

『ほら、明香沙。泣くなって』

明香沙の目の前にハンカチが差し出される

『…兄様』

見上げた先には、幼い亜門がいた

『明香沙や由里子、凛翔や有翔だって僕が守ってやる!

…もちろん、いま母様のお腹にいる新しい兄妹もな!』

無邪気な笑顔でそう言った兄は、とても眩しかった…


「…あの頃のみんなは、もういないわ」

もう戻れないほど汚れきった私たち

数え切れない人々を泣かせてきた

「それでも…私はまだ、やり直せるって思っているわ」

「無理に決まってるじゃない!!」

由里子の言葉に激昴する明香沙

「明香沙…」

「私は絶対にあんな男に頼ったりしない!

…むしろいつか、潰してやるんだから!!」

明香沙の目に怒りが帯びた

「…兄妹で争っても、虚しいだけよ」

「それでもいい!!」

まるで子供のように怒りを露わにする

「私は…私の人生は私が決めるの!
姉さんや兄上たちに決められるなんてごめんだわ!!」

ふらふらの明香沙は意地でも立ち上がり、そのまま部屋を後にした

「…今のを見て、どう思う?」

明香沙が部屋を去った直後、クローゼットの影から有翔が姿を現した

「…」

「言ったでしょう?

…何も変わらないって」

二言目をより低く重く告げる由里子

「私だってそんな仲良しごっこ、まっぴらごめんよ!

自分の事だけ考えてなさい、有翔」

有翔に向き直ることなく、由里子も部屋を出た


「…」

俺は、間違っているのだろうか

「……」

いくら政略結婚だったとはいえ、今の家庭が何よりも大切で…

何よりも幸せと、感じ始めていた有翔

それを、ほかの兄妹たちにも分かってほしかった

「…くそっ!!」

ダンッッ!!と拳で壁を殴る有翔

「……」


このままあの人たちは、本当に“愛”を知らずに生きていくのだろうか

「…彩七だけが、分かってくれたのに……」

最後の希望である彩七以外は、本当に冷酷だった


愛の無い家庭で育った兄妹たちの歯車は揺るがないと、思い知らされた日だった