次の日、滅多にない午後練のために部室に向かうと、一番にそこに着いていたのは主将だった。
「こんにちは」
「お、橋本。大丈夫かー? 昨日ちゃんと眠れた?」
「大丈夫です。すいません、ご心配をおかけしました」
 あのまま帰った翠のことを、心配してくれていたらしい。
「あの、豊永さんのことなんですけど」
 主将の動きが止まった。二人きりだからこそ、聞けることだった。翠は決めていたのだ。まだ何も知らないあの静かな人を、知りたいと思った。探したいと、見つけたいと思った。
「どうして部活を辞めたんですか?」
 主将はロッカーをパタンと閉じて、それからそこに座った。トンと前を叩いたのは、翠も座れということなのだろう。
「残念だけど、その質問の答えは知らない。ごめん」
「いえ、それは」
 何も言わずに消えてしまったのだ。そんな豊永が部活を辞めた理由を誰かに話していたら、それこそおかしな話だ。豊永の幼馴染を名乗るあのそっくりな先輩――笹谷だって、知らないのに。予想通りの答えに、翠は小さく首を振る。
「そもそも、本当はあいつが主将になるはずだったんだ。一年生の終わりにもなれば、大体そんな話が出てくるんだよ。豊永は上手かったし、まとめ上手で教え上手。だから、最大候補って言われてた。でも、そんな矢先、三年生の引退試合の直後、急に部活を辞めた。みんな慌てたよ。理由を聞こうとした。そしたら豊永はこう言うんだ」
 主将は顔をしかめて、だけどその表情がどのような感情を示すのかは分からなかった。
「もう、意味なくなっちゃったんだ。もう、追いかけたいもの見失っちゃったから」
 その言葉を聞いた瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。ずっと分からなかったのだ。どうして父を追いかけて始めたはずの大切なものを手放したのか、新しい道すらも捨て去ってしまったのか。バレーを捨てて始めたくらいなのだからバンドも大切だったに違いない。それすら、豊永は捨て去ってしまった。
「あの、主将」
 立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
「すいません、あの、今日、部活休みます」
 荷物を腕に引っ提げ、ローファーに足をねじ込んだ。部室を出るときにマネージャーとすれ違った。部室棟の二階から駆け下りて行く。スカートがひらりと揺れた。
「翠ちゃん!」
 振り返った視線の先に立っていたのはマネージャーだ。昔の彼を教えてくれた、あの。
「頑張って!」
「ありがとうございます、あの……」
「うん?」
「私たぶん、あの人のことが好きです」
 マネージャーの先輩は嬉しそうで、それでいて寂しそうに笑った。この人は、豊永を好きだったかもしれないと、翠は思う。自分のことすら理解しきれない翠は、そんなことに確信を持てない。それでも、そうかもしれないと思う。
「うん、知ってる。ねえ、いいこと教えたげようか」
 微笑んだ先輩に差し出された紙切れを、翠は強く強く、握り締めた。先輩はもう一度笑って、そして翠の背中を押した。零れ落ちた涙は、苦しさからだろうか、それとも嬉しかったのだろうか。翠は涙を飲み込み、駆け出した。
 くだらない。本当に自分でもばかばかしい。
 だけど。今しかないのだ。こんなこと、今しかできないのだ。
 翠は自覚していた。自分があのとき、あの先輩に抱いていた思いも、そして彼が消えて思ったことも、全部、本当は理解していたのだ。それでも認められないのは、それがたまらなく苦しいものだと分かっているからだ、そして彼が消えてしまったという事実を受け入れたくないからだ。これを恋と呼ぶのなら、それはあまりに苦しい。
 そんなもの、とうに気がついていた。
 ずきずきと心が痛い。心臓が押しつぶされたように、息ができない。苦しくて、苦しくて、それでも走るしかない。息を吐き出すたびに、視界が白く霞む。豊永が消える前、バスの中で見た表情を思い出した。泣いていた、確かにあの日、涙もなく豊永は泣いていたのだ。
 少し前をバスが去っていこうとしている。待って、お願い。声にはならず、翠は走るペースを上げた。信号が赤に変わり、バスが止まる。やっと追いついたところで扉を開けてもらい、飛び乗った。これを逃した次のバスが何分後かと考えるだけで頭が痛くなるようだ。安心するとせき止めていた涙がまた溢れ出して、翠は慌てて手のひらでそれを拭い、後ろの方の席へ腰掛けた。あの日、豊永が座っていたのと同じ場所だ。自分が座っていたのと、通路を挟んだ向かい側の席。
 もしも自分が男なら、もう少し近い距離にいれただろうか。あの人からバレーを教わることはできたのだろうか。同じコートに立つことはできただろうか。だけど、もしも男だったら、きっとこんな感情は知らないままだ。
 息を整えながら、窓の外を見やる。冬の景色が、白く染まっている。豊永がいなくなってから、まだ三日しか経っていない。それなのにこの数日間は長く感じてしかたがなかった。
 翠は何から話そうかと考えた。豊永がどうやってこの数日間を過ごしたのか、どうして何も言わずに消えたのか、どうして何もかもを投げ出さなくてはいけなかったのか。聞きたいことはあまりにも多く、何から聞けばいいのか分からない。そもそも会えるとも限らないのに、本当に馬鹿みたいだと思った。
 しばらくバスに揺られ、耳に慣れたバス停の名前に、ピクリと肩が反応した。普段豊永の使うバス停だ。だけど翠は立ち上がらない。くしゃくしゃになった紙を広げ、バス停の名前を何度も見る。これは、翠の最寄りのバス停の三つ前だったはずだ。そのバス停に着いた頃には、部活は既に始まる頃、既に二時半を回っていた。三つしか変わらないはずなのに、景色は全然違う。冷たい風が酷く吹き付けるのは、海が近いからなのだろうか。
「バスを降りて右側……海沿いの道……」
 その先に、豊永が参加していた、少年バレーのチームが使用する体育館がある。渡されたメモをもう一度確認して、それから走り出す。遠くに見える海は翡翠色にもエメラルドグリーンにも見えるような色をしていた。翠の名前をきれいだと、そう話したのは、この翡翠色の海が、思い出の地にあるからなのかもしれない。自意識過剰かもしれない。それでも翠はあの言葉が嬉しかった。翠を、名前で呼んでくれることが嬉しくてたまらなかった。
 足を動かすスピードを上げていく。本当にその先に豊永がいるのかも、会えるかも分からないのに、それでも翠は走り続けた。もしも本当にこの先にいるなら……たったそれだけの思いが、翠を突き動かしていたのだ。ローファーのせいで足が痛い、リュックに詰め込まれた荷物が重い、風ではためくマフラーが鬱陶しい。こんなことなら、部室でランニングシューズに履き替えればよかった。ジャージなんて、置いて来ればよかった。マフラーだって、一緒に。後悔と、豊永に会いたいと願う気持ちが渦巻き、でも最終的に残るのは、どうしたって会いたい気持ちだった。
 何かにつまずき、右のローファーが転がる。つま先が痛い。その衝撃で涙をせき止めていた何かが決壊し、ぼろぼろと雫が零れ落ちた。慌ててそれを拭い、翠はまたローファーに足をねじ込んで走り出す。
 会いたい、どこにいるか確証がなくても、それでも会いたい。日が暮れ始めていた。水平線へ、太陽が沈んでいく。
 足が、止まった。
 そのとき、確かに人影が砂浜で揺れていた。逆光で見えないけれど、それは確かに人の姿だった。
 豊永だ、と思った。近くに獣道を見つけ、翠は砂浜へ降りる。強く風が吹きつける中、防寒もまともにしていない制服姿の豊永が、ぼんやりとした様子で立っていた。ゆらゆらと揺れたその影は、海に向かって歩いているようだった。
「待って!」
 思わず、声をあげた。振り返ったその顔は、驚く様子もなく、いつもと変わらぬ顔で、少しだけ微笑んでいた。慌てて駆け寄り、その腕をつかんだ。豊永の顔が、刹那、泣いているように見えた。しかしその次の瞬間には、もう視界が歪み、何も見えなくなってしまった。
「翠」
 その声は温かくて、優しい。それが余計に、翠の胸を締め付ける。
「死のうとしたわけじゃないよ。少し、手を伸ばしたくなっただけ」
「意味が分かりません」
 分からないのだ。いつだって、豊永は気持ちを汲み取らせてくれない。言いたいことなんて、いつも心に閉じ込めて、そんなの、辛いに決まっているのに。
「いつも、上を向いて涙をこらえてたんですか」
「ちがうよ」
「違わない!」
 翠が激しく責め立てる一方で、豊永はどこまでも冷静だった。もう、知ってしまったのだ。天井が落ちてくるような感覚を。涙で視界が歪んだときの、天井が近づくような感覚を。
「ごめん、おねがいだから、わらってよ」
 豊永の話し方は、いつだって少し曖昧で、そして温かくて、まるで言葉じゃないみたいだ。
「何で……どうして、バレーを手放してしまったんですか」
 笑う気になどなれない。入水自殺するみたいな、あんなところ、見せられた直後で。
「父親に……会ってきたんだ」
 目を伏せた豊永の横顔は、きれいだった。夕焼け色の光を浴びて、憂いを帯びていた。どうしてこの人を見ていると、こんなに涙が溢れてくるのだろう。翠は豊永をつかむ腕に力がこもるのを感じた。
「バレーは、少年チームのコーチだった父親が、俺に教えてくれたんだ。……それで、両親が離婚して俺が母親に引き取られたとき、他のものを犠牲にしてバレーひとつに絞ろうと思った。父親とのコミュニケーションの手段だったそれは、そのときの俺にとって、欠かせないものだったからね。俺は部活の後にこっそり父親の元を訪ねたりもして、もちろん試合のときは見にきてもらったりもしたんだ。でもある日、もう来ないでくれって言われた。だから俺は、バレーを辞めた。もう意味なくなっちゃったからね」
 上手く息ができない。言葉が詰る。こんなとき、何を言うのが正解なのかが分からない。
「みどり」
「はい」
「おれは、だれも愛せないとおもうんだ」
「……はい」
 ああ、だから恋なんてしたくなかったのに。豊永は遠くの空を、見上げていた。涙をこらえているのだろうか。またそうやって、上を見てごまかすのだろうか。
「再婚したんだって、つい先週かな。会いに来ないでほしいのは、そういうことだったんだよ。でも最後に会いたくてここまで来て、それなのに勇気が出なくて。ついさっき、たまたまそこで会って……もう、全部終わったんだ。――あぁ……天井どころか、空まで降ってくるみたいだ」
 気がついたように目を細めて、そして空をじっと見つめる。今度こそ、その横顔は泣いていた。一筋の雫が、零れ落ちた。
「翠、俺は誰も愛せないかもしれないけど、でも、おまえは捜しに来てくれるって信じてたよ」
 どくん、と心臓が揺れた。
「何で……だって」
「何でだろうなあ。でも、おまえのこと、信じてみたかったんだ」
 豊永にかける言葉は、相も変わらず見つからないままだ。だけど今はそれでもよかった。今度こそ、翠は笑顔を作って、そして豊永を見つめる。
 報われることのない恋心を、翠は心の中で小さく呟く。言葉にするのは簡単なのに、どうしてこんなに伝えるのが難しいのだろう。こんなにちっぽけな想いが、どうして胸を締め付けるのだろう。代わりの言葉を探して、翠は今度こそその愛おしい人が消えてしまわないよう抱き締め、口を開いた。