翠はよく自動販売機に立ち寄る。部室棟の裏側にあるそれは、部活後に立ち寄るのにちょうど良かった。豊永が行方知らずになってからは、毎日のように通いつめた。無意識に手がいちごミルクのボタンへ伸びるのは、きっと豊永を意識していたのだろう。特別と呼べるほど近い存在ではなかったけれど、確かに豊永は翠に大きく影響を与えていた。
「あのさ、確か流の後輩の――」
ふいに声を掛けられ、振り返る。そこに立っていたのは、豊永とバンドを組む、ボーカルの男だった。文化祭のステージを見たので翠も彼のことは覚えている。しかし翠はこの男と知り合った記憶はない。怪訝に表情を歪めながら、翠は小さく名前を呟いた。
「橋本翠です」
「ああ、そうか、橋本か」
なんで知っているのだろう、関わったこともないのに。豊永の周りには不思議な人が集まるのだろうか。もちろん、豊永を含めてだが。へらりと笑って名乗る男に対し、翠は興味なさげに聞き流す。明るくていつも人に囲まれている人気者というタイプの、笹谷と名乗った男は、翠はどちらかといえば苦手な性格をしている。胡散臭い笑顔だった。
「……なあ、あいつは何で消えたと思う」
「知りませんよ」
だからどうして、みんなして翠に豊永のことを聞くのか。翠はまったくそれが理解できなかった。同じバンドに所属するくらいだから、一緒にいた時間なんて比べ物にならないくらい長いだろうに。
翠が百円玉を入れようとしたところで横から手が伸びてきてそれをさえぎった。代わりに百円玉を投入した手は、そのままいちごミルクのボタンを押した。
「はいよ」
「なんで……」
「ここ、俺の教室から見えるんだ。いつも一番上の、右端のボタン押すの、知ってた。でもいちごミルクは意外だな。もっとコーヒーとか飲んでるかと思った」
ちらりと校舎を一瞥して、それからまた視線を戻す。少し豊永と似た笑い方に、翠は目をそらした。確かに翠は周りと比べると冷めているように思うが、だからといってコーヒーのイメージは意味が分からない。いつもコーヒーを買うのは、翠ではなく豊永だ。そこでも豊永が意識の中で見え隠れする。
「俺、あいつと幼馴染で、家も近くてさ。でも急に消えた理由、知らねえんだ。あいつの話すことは難しいし、作る曲も書く歌詞も俺にはよく分かんなかったな。バンド始めたのは俺だし、あいつが暇そうだったから誘ったのも俺だけど、センスは豊永の方があったから任せてたんだ。おかげで今、バンド活動は休止中。ギターいないと話進まねえだろ」
苦笑いをしながら、ぺらぺらとバンドの話をするこの人は、豊永とは似ていない。よく喋る笹谷と、静かな豊永は正反対とも言えた。嫌悪に眉をひそめる翠など気にも留めず、笹谷は話すのを止めない。
「俺は、バンドがあいつにとって新しい居場所になったらとか思ってたんだけど」
その言葉に、翠は意識を呼び戻されたようだった。居場所。そうだ、バレー部は確かに豊永の居場所と呼べる場所ではなかったのだろうか。簡単に捨ててしまう人とは思えない。大切な居場所だったらなおさらだ。
「先輩は、豊永さんがバレーを辞めた理由を知ってるんですか」
初めて自分から言葉を発したことに対してなのか、笹谷は何度か驚いたように瞬きをして、それから笑った。冷たい風が吹いて来て、眉にかかるほどの前髪が揺れる。やはり少しだけ似ているかもしれない。きれいな作りをした顔だとか、それから大切なものを抱えるみたいな話し方だとか、似ているのだ。
「辞めた理由は知らないよ。でも始めた理由は知ってる。たぶんだけど、父親の背中を追いかけていたんだと思う。あいつの父ちゃん、ここのOBで全国行ってっから」
ほら、また。笑い方は切なそうで、それがどうしても豊永と重なる。長い間一緒にいた二人は、自然と似たのかもしれない。小さい頃から一緒にいたのなら、それもおかしくない。
「って言っても、中学の頃にあいつの親は離婚して、そっから何を理由にしてたのかは知らないんだけどな。……こんな話重いよな、ごめんな」
「……勝手に話して豊永さんに怒られないんですか」
「怒るかもなあ。でも、勝手にいなくなったんだ、俺がこれぐらいのわがまま言ったっていいだろ」
そのとき、笹谷は笑っていたけれど、翠は泣いているかもしれないと思った。
ああ、本当に嫌だ。なんでこの人はこんなにも、豊永と重なって見えるのだろう。
豊永はバレー部員ではない。体育館にいないのなんていつものことだったのに、どうしても視線が豊永を探している。ふらりと突然現れて、主将と談笑をして、セッターに指導をして、それから――。そういえば、ジャンプフローターサーブの指導なんかもしていたはずだ。気にしていなかったはずの世界が、欠片が、急に蘇る。自分には関係がないはずだった。たまたま帰りのバスが同じで、一緒の便で帰ることも多くて、だけどそれだけだった。会えば挨拶はする。それ以上なんてほとんどない。それなのにあの日の豊永は確かに天井を怖いと話していたし、その言葉は間違いなく翠に向けられていた。部活での接点なんてまるでなかったのに、豊永は翠にキャプテンになってほしいと言った。
「豊永さんが嫌いだと思います」
主将は困ったように笑った。
「突然だな。どうした?」
「理解ができません。急に消えたのも意味分からないし」
「そりゃ、みんな理解できないよ」
主将は本当に困っているようだった。少し前まで仲間だった豊永が消えたのだから、無理はない。突然行方不明になれば、誰だって困るに決まっている。豊永は本当にそれすら考えないだろうか。考えれば考えるほど、豊永は一歩遠のいていく。どうしてもそんな人だとは思えなかった。どちらかと言うと、周りをよく見ていた方だと思う。だからこそセッターという役職に向いていたのだし、その実力を認められていたのだ。
それでも、突然部活を辞めた。もしかしたら急にいなくなったのも、それと似たものなのかもしれない。
「いつも突然だったからなあ」
その声は寂しさを含んでいた。
「豊永さんは、戻ってこないんでしょうか」
「さあね。それはあいつしか知らない」
主将はドリンクをかごに投げて戻すと、パンと手を叩いた。
「サーブ練一人五十本!」
みんなが返事をする。いつも通りの光景。男女の声が入り混じる中、少しずつ人は散らばり、サーブ位置に並ぶ。何も変わらない。いつも通り練習はハードで、それでもどこか楽しい。変わったことなんて、何もないのに、それなのに心が痛い。心に穴が開いたみたいだ。そしていつもよりも、音が溢れかえっているような気がする。ボールが床に叩きつけられる音と、そのたびに飛ぶ声。手がボールを打つ音や、マネージャーがドリンクを補充しに行った足音。話し声も聞こえる。コーチの声はいつもより怒っているみたいだった。
翠は立ち尽くして、体育館の中を眺めていた。何が足りないのだろう。入部したときから、何も変わらないのに、それでも翠は泣きたい気分だった。
「大丈夫?」
ひとつ年上のマネージャーが近くで首を傾げていた。
「豊永くんがいなくなったこと、気にしてるの?」
「……そんなこと、ないです」
「嘘」
それが嘘なんてことは、自分が一番よく分かっている。だから、言わないでほしかった。言ったところで、何かが変わるわけではない。
「せんせー! 橋本が体調悪そうなので向こうで休ませておきますねー!」
翠を無理にベンチに座らせたマネージャーは、少しいたずらに笑って、翠の隣に座った。
「あたしさ、豊永くんと同じ中学だよ」
「え……」
「だからちょっぴり心配してたの。豊永くん、中学のときは男バレなかったから陸上部だったよ、走り高跳び。バレーは学校の外でしてたみたい。そんで、陸上部は中学二年生のときに辞めちゃった」
視線は体育館の中。向けられたのは男バレのようにも見えたし、女バレのようにも見えた。ただ、その横顔がまるで儚いものを見るように切なそうだったのを覚えていた。
「あたし同じ陸上部だったの。陸上競技にはあんま興味ないのも知ってた。でも、バレーだけはたぶん宝物だったの、豊永くんにとっては。たぶん、何よりもバレーが好きだったよ、バレー馬鹿だったよ。豊永くん、大人しくて頭も良かった。本当は進学校を目指せって言われてた。でも、それでもバレーの強豪校を選んだの。それだけのことだから、確信があるわけじゃない。でもあたしは、そうだと思う」
「じゃあ、なんで」
「分かんないよ」
どうして、自らその道を捨てた? 言いかけた言葉はさえぎられてしまった。
「でもその宝物を捨てるって、よほどのことがあったと思うよ。急にいなくなっちゃったのも、バレーと関係があるのかもね」
頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、翠はその手を振り払う。
「あんただけ、特別だよ。他の人には言わない。豊永くんを、何しても長続きしないって悪く言う人もいるよ。でも、あたしにはどうしてもそう思えないの。たぶんあんたも、同じだと思ったから」
翠はただ兄がやっていたという理由でバレーを始めた。面倒なことは好きじゃない。チーム戦も嫌いだ。集団行動だとか、連携だとか、苦手なのだ。たかが部活だからと、熱意を注ぎきれない自分もいた。ベンチ入りだってしていない。そんな自分はバレーを続けているのに、どうしてあんな大切に抱えていた豊永はここにいないのか。
豊永が、バレーをまるで宝物みたいに、壊れ物みたいに抱えていることなんて、翠は、それだけは分かっているつもりだった。
「……豊永さんの顔が、思い出せないんです」
頻繁に会うわけでもなく、会ったからと言って喋るわけでもなく。しばらく会わなければ、もう記憶は薄れていく。
「最後に会ったとき、すごく悲しそうにしてました。どこか遠くにいるみたいでした。なんでだろう、トスを上げる後ろ姿も、その表情だって思い出せるんです、それなのに私、どうしてもその顔が思い出せなくて」
「おかしいよね、人は覚えたいことを忘れるんだもの」
彼女もそうだったのだろうか、その横顔は相変わらず切なく、そして今にも泣き出しそうだった。それでも笑っていた。そんな必要ないのに、無理に笑おうとしていた。
「あたしもさあ、豊永くんが高飛びやってんの好きだったのに、もう、その背中は覚えてないの」
ああ、そうだったのか。翠は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。大切だったのだ。途中で辞めてしまったとしても、それでもこの人にとって、豊永は大切な人だったのだ。それは間違いなく、翠にとってもそんな存在だった。いなくなれば、世界はひっくり返る。何が変わったかは分からない、それでも大切なものが欠けた世界は、確かに一つ色を失ったようだ。翠は天井を見上げた。天井が、揺れたような感覚がした。
「あ……天井」
「え?」
「天井が、落ちてくるみたいですね」
そんなのは錯覚だ。ぐらりと、にじんだ天井は本当に落ちてくるみたいだった。
「豊永さんは、これを言ってたんですかね」
「それは知らないわよ」
少し笑ったみたいな声がして、にじんだ世界が淡い緑色のタオルでふさがれた。その衝撃で腕に零れ落ちたのは汗だったのか、あるいは涙なのか、翠には分からなかった。
「あのさ、確か流の後輩の――」
ふいに声を掛けられ、振り返る。そこに立っていたのは、豊永とバンドを組む、ボーカルの男だった。文化祭のステージを見たので翠も彼のことは覚えている。しかし翠はこの男と知り合った記憶はない。怪訝に表情を歪めながら、翠は小さく名前を呟いた。
「橋本翠です」
「ああ、そうか、橋本か」
なんで知っているのだろう、関わったこともないのに。豊永の周りには不思議な人が集まるのだろうか。もちろん、豊永を含めてだが。へらりと笑って名乗る男に対し、翠は興味なさげに聞き流す。明るくていつも人に囲まれている人気者というタイプの、笹谷と名乗った男は、翠はどちらかといえば苦手な性格をしている。胡散臭い笑顔だった。
「……なあ、あいつは何で消えたと思う」
「知りませんよ」
だからどうして、みんなして翠に豊永のことを聞くのか。翠はまったくそれが理解できなかった。同じバンドに所属するくらいだから、一緒にいた時間なんて比べ物にならないくらい長いだろうに。
翠が百円玉を入れようとしたところで横から手が伸びてきてそれをさえぎった。代わりに百円玉を投入した手は、そのままいちごミルクのボタンを押した。
「はいよ」
「なんで……」
「ここ、俺の教室から見えるんだ。いつも一番上の、右端のボタン押すの、知ってた。でもいちごミルクは意外だな。もっとコーヒーとか飲んでるかと思った」
ちらりと校舎を一瞥して、それからまた視線を戻す。少し豊永と似た笑い方に、翠は目をそらした。確かに翠は周りと比べると冷めているように思うが、だからといってコーヒーのイメージは意味が分からない。いつもコーヒーを買うのは、翠ではなく豊永だ。そこでも豊永が意識の中で見え隠れする。
「俺、あいつと幼馴染で、家も近くてさ。でも急に消えた理由、知らねえんだ。あいつの話すことは難しいし、作る曲も書く歌詞も俺にはよく分かんなかったな。バンド始めたのは俺だし、あいつが暇そうだったから誘ったのも俺だけど、センスは豊永の方があったから任せてたんだ。おかげで今、バンド活動は休止中。ギターいないと話進まねえだろ」
苦笑いをしながら、ぺらぺらとバンドの話をするこの人は、豊永とは似ていない。よく喋る笹谷と、静かな豊永は正反対とも言えた。嫌悪に眉をひそめる翠など気にも留めず、笹谷は話すのを止めない。
「俺は、バンドがあいつにとって新しい居場所になったらとか思ってたんだけど」
その言葉に、翠は意識を呼び戻されたようだった。居場所。そうだ、バレー部は確かに豊永の居場所と呼べる場所ではなかったのだろうか。簡単に捨ててしまう人とは思えない。大切な居場所だったらなおさらだ。
「先輩は、豊永さんがバレーを辞めた理由を知ってるんですか」
初めて自分から言葉を発したことに対してなのか、笹谷は何度か驚いたように瞬きをして、それから笑った。冷たい風が吹いて来て、眉にかかるほどの前髪が揺れる。やはり少しだけ似ているかもしれない。きれいな作りをした顔だとか、それから大切なものを抱えるみたいな話し方だとか、似ているのだ。
「辞めた理由は知らないよ。でも始めた理由は知ってる。たぶんだけど、父親の背中を追いかけていたんだと思う。あいつの父ちゃん、ここのOBで全国行ってっから」
ほら、また。笑い方は切なそうで、それがどうしても豊永と重なる。長い間一緒にいた二人は、自然と似たのかもしれない。小さい頃から一緒にいたのなら、それもおかしくない。
「って言っても、中学の頃にあいつの親は離婚して、そっから何を理由にしてたのかは知らないんだけどな。……こんな話重いよな、ごめんな」
「……勝手に話して豊永さんに怒られないんですか」
「怒るかもなあ。でも、勝手にいなくなったんだ、俺がこれぐらいのわがまま言ったっていいだろ」
そのとき、笹谷は笑っていたけれど、翠は泣いているかもしれないと思った。
ああ、本当に嫌だ。なんでこの人はこんなにも、豊永と重なって見えるのだろう。
豊永はバレー部員ではない。体育館にいないのなんていつものことだったのに、どうしても視線が豊永を探している。ふらりと突然現れて、主将と談笑をして、セッターに指導をして、それから――。そういえば、ジャンプフローターサーブの指導なんかもしていたはずだ。気にしていなかったはずの世界が、欠片が、急に蘇る。自分には関係がないはずだった。たまたま帰りのバスが同じで、一緒の便で帰ることも多くて、だけどそれだけだった。会えば挨拶はする。それ以上なんてほとんどない。それなのにあの日の豊永は確かに天井を怖いと話していたし、その言葉は間違いなく翠に向けられていた。部活での接点なんてまるでなかったのに、豊永は翠にキャプテンになってほしいと言った。
「豊永さんが嫌いだと思います」
主将は困ったように笑った。
「突然だな。どうした?」
「理解ができません。急に消えたのも意味分からないし」
「そりゃ、みんな理解できないよ」
主将は本当に困っているようだった。少し前まで仲間だった豊永が消えたのだから、無理はない。突然行方不明になれば、誰だって困るに決まっている。豊永は本当にそれすら考えないだろうか。考えれば考えるほど、豊永は一歩遠のいていく。どうしてもそんな人だとは思えなかった。どちらかと言うと、周りをよく見ていた方だと思う。だからこそセッターという役職に向いていたのだし、その実力を認められていたのだ。
それでも、突然部活を辞めた。もしかしたら急にいなくなったのも、それと似たものなのかもしれない。
「いつも突然だったからなあ」
その声は寂しさを含んでいた。
「豊永さんは、戻ってこないんでしょうか」
「さあね。それはあいつしか知らない」
主将はドリンクをかごに投げて戻すと、パンと手を叩いた。
「サーブ練一人五十本!」
みんなが返事をする。いつも通りの光景。男女の声が入り混じる中、少しずつ人は散らばり、サーブ位置に並ぶ。何も変わらない。いつも通り練習はハードで、それでもどこか楽しい。変わったことなんて、何もないのに、それなのに心が痛い。心に穴が開いたみたいだ。そしていつもよりも、音が溢れかえっているような気がする。ボールが床に叩きつけられる音と、そのたびに飛ぶ声。手がボールを打つ音や、マネージャーがドリンクを補充しに行った足音。話し声も聞こえる。コーチの声はいつもより怒っているみたいだった。
翠は立ち尽くして、体育館の中を眺めていた。何が足りないのだろう。入部したときから、何も変わらないのに、それでも翠は泣きたい気分だった。
「大丈夫?」
ひとつ年上のマネージャーが近くで首を傾げていた。
「豊永くんがいなくなったこと、気にしてるの?」
「……そんなこと、ないです」
「嘘」
それが嘘なんてことは、自分が一番よく分かっている。だから、言わないでほしかった。言ったところで、何かが変わるわけではない。
「せんせー! 橋本が体調悪そうなので向こうで休ませておきますねー!」
翠を無理にベンチに座らせたマネージャーは、少しいたずらに笑って、翠の隣に座った。
「あたしさ、豊永くんと同じ中学だよ」
「え……」
「だからちょっぴり心配してたの。豊永くん、中学のときは男バレなかったから陸上部だったよ、走り高跳び。バレーは学校の外でしてたみたい。そんで、陸上部は中学二年生のときに辞めちゃった」
視線は体育館の中。向けられたのは男バレのようにも見えたし、女バレのようにも見えた。ただ、その横顔がまるで儚いものを見るように切なそうだったのを覚えていた。
「あたし同じ陸上部だったの。陸上競技にはあんま興味ないのも知ってた。でも、バレーだけはたぶん宝物だったの、豊永くんにとっては。たぶん、何よりもバレーが好きだったよ、バレー馬鹿だったよ。豊永くん、大人しくて頭も良かった。本当は進学校を目指せって言われてた。でも、それでもバレーの強豪校を選んだの。それだけのことだから、確信があるわけじゃない。でもあたしは、そうだと思う」
「じゃあ、なんで」
「分かんないよ」
どうして、自らその道を捨てた? 言いかけた言葉はさえぎられてしまった。
「でもその宝物を捨てるって、よほどのことがあったと思うよ。急にいなくなっちゃったのも、バレーと関係があるのかもね」
頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、翠はその手を振り払う。
「あんただけ、特別だよ。他の人には言わない。豊永くんを、何しても長続きしないって悪く言う人もいるよ。でも、あたしにはどうしてもそう思えないの。たぶんあんたも、同じだと思ったから」
翠はただ兄がやっていたという理由でバレーを始めた。面倒なことは好きじゃない。チーム戦も嫌いだ。集団行動だとか、連携だとか、苦手なのだ。たかが部活だからと、熱意を注ぎきれない自分もいた。ベンチ入りだってしていない。そんな自分はバレーを続けているのに、どうしてあんな大切に抱えていた豊永はここにいないのか。
豊永が、バレーをまるで宝物みたいに、壊れ物みたいに抱えていることなんて、翠は、それだけは分かっているつもりだった。
「……豊永さんの顔が、思い出せないんです」
頻繁に会うわけでもなく、会ったからと言って喋るわけでもなく。しばらく会わなければ、もう記憶は薄れていく。
「最後に会ったとき、すごく悲しそうにしてました。どこか遠くにいるみたいでした。なんでだろう、トスを上げる後ろ姿も、その表情だって思い出せるんです、それなのに私、どうしてもその顔が思い出せなくて」
「おかしいよね、人は覚えたいことを忘れるんだもの」
彼女もそうだったのだろうか、その横顔は相変わらず切なく、そして今にも泣き出しそうだった。それでも笑っていた。そんな必要ないのに、無理に笑おうとしていた。
「あたしもさあ、豊永くんが高飛びやってんの好きだったのに、もう、その背中は覚えてないの」
ああ、そうだったのか。翠は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。大切だったのだ。途中で辞めてしまったとしても、それでもこの人にとって、豊永は大切な人だったのだ。それは間違いなく、翠にとってもそんな存在だった。いなくなれば、世界はひっくり返る。何が変わったかは分からない、それでも大切なものが欠けた世界は、確かに一つ色を失ったようだ。翠は天井を見上げた。天井が、揺れたような感覚がした。
「あ……天井」
「え?」
「天井が、落ちてくるみたいですね」
そんなのは錯覚だ。ぐらりと、にじんだ天井は本当に落ちてくるみたいだった。
「豊永さんは、これを言ってたんですかね」
「それは知らないわよ」
少し笑ったみたいな声がして、にじんだ世界が淡い緑色のタオルでふさがれた。その衝撃で腕に零れ落ちたのは汗だったのか、あるいは涙なのか、翠には分からなかった。
