部活を辞めた先輩が、ある日突然消えた。それを聞かされたとき、翠はまず彼の言葉を思い出したのだ。何と呼べばいいか分からない不思議な関係の、二人の小さな秘密だった。


「天井って、怖いと思わないか」
「……はあ」
「たまに、天井が落ちてくるような感覚になるときがある」
 ある日の帰り道、たまたま乗り合わせたバスの中だった。ぽつりと、まるで独り言のように呟いたその先輩の視線は、確かに翠に向けられていた。
「そう、ですか」
 翠は応える言葉が見つからず、ただそう言葉をこぼした。その先輩――豊永という男は、本来翠とは何の接点もないはずであった。翠がバレーボール部に入部した春、二年生の豊永はすでに帰宅部に変わっていた。控えセッターだった。二年生を抑えてのベンチ入り。それなのに。
 翠と、入学前に辞めてしまった豊永が知り合ったのも、本当に些細なものであった。たまに部活の様子を見に来る豊永のことを翠はなんとなく覚えていて、そして反対に豊永も翠のことを覚えていて、一度だけ自動販売機の前で居合わせたのだ。そんなただの顔見知りの翠に対し、豊永はにこやかに話しかけた。そしておごるよと笑って、本当にいちごミルクをおごってくれた。翠はそんな豊永を不思議な人だと思っていた。そんな不思議な男は、言葉も少ないのに、それでも心に寄り添うようなひとだった。
「豊永さんは、バレーはもうやらないんですか」
 代わりに思いついた言葉はそれで、気の利かない後輩だなと思いながらも、ただ豊永の返事を待った。豊永は指先が冷えるのか、セーターの中に指を引っ込めながら白い息を吐いた。
 変な笑顔だ、と思う。翠はこの先輩がどうにも気に食わない。穏やかな時間は好きだったが、いつだって曖昧な豊永に対し、苛立ちを覚えることだってあった。
「どうかな」
 豊永の言葉は曖昧だった。この人がバレーを見ていないことなど、とうに分かっていた。たまに顔を出して、トスをあげて、それなのに見ている場所は決してその体育館の中ではなかった。決して親しいわけではない翠が言うことではないのかも知れないけれど、確かに、豊永は何かを見ていたのだ。あまりにも静かな先輩は、上げるトスすらも静かで、翠はその背中を見るのが好きだった。恋い慕うと言うにはあまりにも遠い感情だが、それは憧憬というにもふさわしくはない。
 豊永に何を思っていたんだろうか。
 翠は豊永といると、言葉が出ない。何か言おうと思っても、ぐわりと心の奥で捕まえられて、声にならない。その間に豊永の視線はまた別の方向に向けられてしまう。
「戻って来ることは、きっともう、ないんでしょ」
 高校にいる間は、この人はもうバレーボールに触ることはない。翠は豊永とバレーをすることができない。同じコートに立つことなんて、ないのだ。分かっていた、答えが分かっていることしか、翠は言葉にできないのだ。
「そうかもね」
 そう言って苦笑した豊永は、バス停に着くと降りて行った。
「豊永さん」
「ん?」
 振り返った背中は、確かに遠くを歩いているように見えた。
「あ、いや」
 呼び止めて、何かしたかったわけではない。それでも、呼び止めなければどこかへ消えてしまうように思ったのだ。
「みどり」
 言い淀んだ翠を、代わりに豊永が呼ぶ。バスの運転手が豊永を急かしていた。豊永はすぐ降りますと声を掛け、また翠を振り返った。泣いているのだと、一瞬思った。だけど吐き出された白い息で視界が霞んだ次の瞬間、豊永はただ笑っているだけだった。
「おれはおまえに、主将になってほしいよ」
 そう言い残して翠に背を向けた豊永は、それ以来自分のことを話したりはしなかった。いつだって豊永は自分の気持ちを言葉にしない。
 似ていたのだろうか、それとも、正反対だったのだろうか。


 バレーボールが床に叩きつけられる音。無理やり戻された意識は、まだ微かに豊永のことを手放さない。
「橋本ー! ちゃんとボール見ろ! 跳ばなきゃミドルブロッカーの意味がねぇだろうが!」
「すいません」
 コーチの声に小さく返答し、翠はネットの向こうを見た。
「橋本、集中力切れたか?」
 隣で笑うのは、主将だ。豊永と親しかったと聞いたことがあるし、実際、豊永が顔を出すと大体主将と一緒にいる。
「いえ、大丈夫です、すいません」
 男子バレー部の中で、翠、と名前で呼ぶのは豊永しかいない。
 ――名前、ミドリって読むの?
 ――はあ、そうですけど。
 ――きれいな名前だね。
 自動販売機の前で、そう言われたのだ。いつ名前を知ったんだろうとか、どうして急にそんなことを思ったのだろうとか、聞きたいこともあったけれど、それきり話さない豊永に対し、翠も何も言わなかった。
 翠は小さく息を吐いて、それから改めてネットの向こうを見る。レシーブが、セッターに届く瞬間。セッターがボールに触った。レフトだ。翠はレフトにいたスパイカーに向かい、そして跳ぶ。次の瞬間、ボールは反対側のコートに叩きつけられていた。
「いいブロックだったぞ、橋本!」
 主将の声が飛んできて、翠は小さくありがとうございますと口にした。
 ああ、どうして。どうして豊永はバレーを、この人たちを、捨ててしまったんだろうか。
 翠は何も知らないのだ。


 豊永が消えたと聞いたのは、部室でのことだった。
「ほら、橋本って親しかったじゃん? 何か知らないかと思って」
「知らないです。それに、別に親しくはない、と、思います」
 だったら主将の方が、よっぽど親しいに決まっている。翠は所詮ただの後輩に過ぎないし、同じコートに立ったことだってない。トスを教える背中は見たことがあっても、彼から何かを教わったことはなかった。何の接点もないはずだった、不思議な関係。
「そうか?」
 主将の微妙な表情に、翠は小さく頷く。
「そんなことより、警察とかに相談した方がいいんじゃ」
「それが置き手紙もあるんだよ。警察はそれじゃあ動いてくれない」
「……そうですか」
 豊永が、一枚のメモ用紙を残してどこかへ消えた。翠は豊永のことを何も知らない。自動販売機でいつも同じ缶コーヒーを買うこと、彼が降りるバス停、バレーを捨ててバンド活動を始めたということ、だけど今度はそれすらも捨ててしまった。
 ――たまに、天井が落ちてくるような感覚になるときがある。
 その言葉の真意を、翠は知らない。
「あの」
 本当に何も知らないと思った。豊永が消えたとき、主将からその話を聞いたとき、そのときになって、初めて気がついた。
「豊永さんの、下の名前って」
「ああ、リュウだよ。流れるって書いて、リュウ」
 よく似合う名前だと思った。静かな豊永に、よく似合う名前だ。だけど翠は、そんなことすら知らなかったのだ。