潮風が心地良く吹いていた。

肌をすり抜けて海へと帰っていく。


私の黒髪はなびくことは無い。
あの日以降、私は腰まで伸びた長い黒髪をゴムで束ねていた。
ポニーテールにするにはちょっと勇気が出なくて、まだ低い位置で結っている。


そんな私の髪型をやたらと彼はいじってくる。


「アオハル、女になったよなぁ…。さすが遥奏のカノジョ」

「宙太くん、さっきからそればっかり。聞き飽きましたー」


懲りずに何かと茶々を入れてくる宙太くんであったが、彼にもまた良いことがあった。


「長内くん、邪魔しちゃ悪いからこっちでやろう」

「オッケ~!」


瑠衣ちゃんが急遽参加してくれることになり、宙太くんは喜びを爆発させいた。
その勢いで宇宙の果てまで飛んで行ってしまいそうだった。

何せ、林間学校以来距離を置かれ、アピールすることが出来ていなかったから、嬉しさも倍増したのだろう。


一方で瑠衣ちゃんは、傷心プチ旅行だった。

彼女は結局、片思いの彼と一緒に花火を見るという夢を叶えることは出来なかった。
吹奏楽部の演奏後に合流したいと言ったらしいが、相手はやはり今カノを選んだのだ。

当然と言えば当然のことだが、瑠衣ちゃんの真っ直ぐな気持ちが受け止められないことが自分のことのように切なく感じられた。
こんなにも純粋に思い続けているのに報われない彼女に対して、自分は意外にも彼女より早く幸せになってしまったのだ。

嬉しい、悲しい、切ない、虚しいとか色んな感情がミキサーにかき混ぜられて複雑な風味を醸し出していた。




宙太くんと瑠衣ちゃん。
報われない2人が、傷心という共通の感情を介して仲良く花火を楽しんでいる。


私は遥奏くんの隣りで、すすきと呼ばれる手持ち花火をやっていた。


「ハル。火、ちょーだい」

「うん。いいよ」


遥奏くんは私のことを“ハル”と呼ぶようになった。

初めてそう呼んでくれたのは、花火大会の帰り。
駅の改札口の前でやっぱり突然彼は口にした。


「ハルって呼んでも良い?」


私はビックリして、危うくsuicaを落としかけた。


「うん…いいよ」


なんとか返事をすると、遥奏くんは繊細で鮮やかな笑顔を見せてくれた。


「ありがとう」


そう言って私を強く抱きしめてくれた。

誰かさんのハグとは違って嫌悪感は抱かなかったし、ドストレートに愛が伝わって来て逆に嬉しくなって、体中がポカポカしていた。


「じゃあ…おやすみ」


遥奏くんのささやきが私の耳で一晩中反芻して、その日は眠れなかった。
息を直接浴びた右耳は電流がビリビリ流れて、完全に麻痺していて、もはや前日までの蒼井晴香はいなかった。
遥奏くんに浸食された新しい私が、彼と接することで生まれていた。


「ハルはさ、オレのこと何て呼んでくれるの?」

「えっと…それは…そのー…」


答えはある。
だけど、僅かな羞恥心と僅かな抵抗により、口が開かない。


「ハル、ちゃんと言って。言うまでずっと待ってる」





そんな…




私…




見つめられると…





失神しちゃうよ。





私はしばらく凶器の視線を一心に受けながらも必死に耐えて言葉にした。


「…遥奏」

「…ハル」


2人のハルカのキョリは驚きのスピードで短くなっていた。

手に持つスパークのように激しく勢いよく突き進んでいるよう。

だけど、この光は一瞬で消えないで欲しい。
永遠に光り輝き続けてほしい。


それが私達が生きる証で、私達の運命を繋ぐものだから。


「おい!ラブラブハルカップル!!打ち上げ花火一発やって終わりにしようぜ!」

「オッケ、今行く!」


遥奏くんが私に左手を差し出す。

私は右手でその手をぎゅっと握り締めた。




「よし!カウントダウン、スタートだ!」



5、




4、




3、





2、





1…









ヒューーーーーーーー







ドン!!!








宙太花火師による打ち上げ花火が見事に夜空の低いところで咲いた。


上昇して行くことは無いけど、この打ち上げ花火は私達の今後を占っていると私は理由も無く、そう思った。











私の大切な人へ


どこにいるの?

何で私を置いて行ったの?

どうして手を握ってくれないの?


私はずっと探していた。


そうやって、あなたを追い求めてずっとさまよっていた。



でも今、ようやくあなたのことを考えなくなっている。
あなたを忘れられそうになっている。


私は蛹を破って蝶になるんだ。


蝶になったら、私はどこに飛んで行くのだろう。

どんな空を見られるのだろう。

楽しみ。

すごく楽しみ。

すごくすごく楽しみ。









―――――でも





私が蝶になってしまったら、蛹に包まれていた記憶は消えてしまうのだろうか。

あの中で大事に大事に蓄え、温め、懐かしんできた思い出はなくなってしまうのだろうか。





そして…





あなたのことを本当に忘れてしまうのだろうか。





私は本当にこのまま殻を破っても良いのだろうか。



言い尽くせない不安が私の心を捕らえた。

半分以上溶けた氷が再び水を集め、私の心を冷やし、ガチガチに凍らせて行く。


「ハル?」

「へ?」

「へ?じゃないよ。急にどうした?」


遥奏が私の顔を覗き込む。

いつもなら、マッチの火が点く時のように一気に頬がぽっと真っ赤になって全身に熱が伝わってくるのに、今は全然そうならない。
逆に熱が放出され、真夏の熱帯夜に溶け込んでいた。


「遥奏と一緒にここにいられて嬉しいなぁってしみじみ感じてたんだ」

「何それ? もの思いに耽るなんて、 平安時代の姫君かよ」


遥奏が私の嘘に気付かず笑い飛ばしてくれた。


今はまだ知らない方が良い。
私の闇の深さに溺れてしまうから。

捕らわれて抜け出せなくなったら、私も苦しい。

苦しみの共有はしないほうが良い。

いくらカレシでも。
いくら大切な人でも。

いや、大切な人だからこそ、苦しめたくないんだ。

遥奏にはずっとずっとずーっと、私の隣で笑っていて欲しい。


だから、蓋は開けない。
…一生。


「晴香ちゃん、写真撮ろう!こっち来て!」

「早くしろ、ハルカップル!!」


スマホで撮った写真は私にとって人生初のグループラインで共有された。


数え切れない星が輝く夜空の下、私達は笑っていた。




波が海岸に打ち寄せては消えて行く。


ここにウミネコはいない。


潮風の香りと微かな甘い香水の匂いが私の鼻を刺激した。









午後8時37分41秒。

夏は私に宿題を残した。